2020年07月22日
▼出版社との各連絡(+追記)
③業者 (株)ブイツーソリューション ℡052-799-7391 名古屋市
出版社は「お手軽出版ドットコム」で上と別組織です。
②本の定価
△書名;「金要らぬ村」を出る…
価格:1,000円+税
ドットコムでは本の定価に著者の意志を入れるという。真意不明。私はあれこれ考えないで「1000円+税」というのを選んだ。本というのは中身に、ほんのちょっぴりの買いやすさ。要は読者数が増えること。
①配本時期
書籍完成はたしか今月7月末と考え、その後書籍配本が即可能だと考えて問合わせ中でした。
ところがやはり現実はそんな甘いものではないようです。以下の案内をいただきました。よろしく。
<ご連絡いただき、ありがとうございます。
ブイツーソリューション お手軽出版ドットコム係です。
書籍完成後、書店流通分は2週間ほどでオンライン書店を含む書店のデータベースに反映され、注文が可能な状態になります。
その後1週間ほどで一般書店に委託配本される予定です。
今回の場合はお盆の期間を挟みますので、8月の下旬頃から書店で取り寄せ可能になると思います。
各オンライン書店の扱いは各サイトによって異なりますが、お盆期間中に購入可能になるところもあるかもしれません。
書籍の発売日は何日と決まるものではございませんので上記のご案内でお願いいたします。>
そうなってくるとそのつもりで行くしかないようですが、
近くなったら最寄りの書店に、電話で
<『「金要らぬ村」を出る…』という本を購入したい。それをこの電話で注文しておきたいが・・・>
という手配をしておいたらいいと思います。申し訳ありません。
(77)私の拾い読み 「最初の棲家」
おそらく家賃なるものを払って暮らすのは、教師を辞めて以降のそれこそ25年ぶりだった。そしてその厳しい現実にたちまちぶつかる。〈村〉からの援助金も切れかかった頃だろうか?
〈「家賃以外に月々共用費を二千円ほどいただかんとな」
家主のおばさんのいささかあけすけな言い分に、私は立ち往生する。このあたりは雑然とした住宅地でわきに野菜畑がある農家風の家、その門柱を挟んで二人は向き合っていた。普通は銀行か郵便局の引き落としなのだろうが、ここは珍しく家賃四万円を月末直接家主のもとへ持参していた。それだけここは街なかでも場末で、元農家が多かった田舎の気風が残っているのかもしれない。私は当然無理だと断わろうとしたが、その口実に戸惑った。
「畜産業というか、いま養鶏というのは左前でしょう。それでリストラで辞めちゃったんですよ。退職金はないし、いまの警備員の稼ぎじゃ手取り十三万程ですわ。それでなんとか〉
そのおばさんは「そりゃあたいへんや、ほんなら一年待とうか」と頷いたばかりか、「あんたもまだ若そうやから、もっと稼ぎのええとこないの」と気にかけてくれたのである。「あそこのマンション管理員さんはだいぶんよぼよぼやけどなあ」とか。
それからそのおばさんと相談したのは、2階に住んだので階下の騒音のことだった。
〈私はその時は勤務に出ていて知らなかったが、靖代の訴えによると土曜夜か日曜朝が特にひどいという。子どもたちの喚声とバタンドタンという騒音が立て続けに聞こえる。夜が遅くて寝足りない靖代と娘はたまりかねてうるさいと怒鳴りながら畳をドンドン叩くまでになった。それが伝わったか下は一瞬静かになったが、それも長くは続かなかった。何とかならないかと家主のおばさんに訊くと、おばさんは首をすくめながら言った。
「あそこは土曜からお父ちゃんが帰ってきとるんよ。それも噂ではどうも偽装離婚やねん。母子家庭の生活保護に子ども四人の児童手当がまるまる手に入るやんか。子どもらは嬉しうてはしゃぐんやが相当うるさいやろなあ」〉
〈そのことへの怒りは特になかったが、そんなことがあるんだ、という発見の驚きがあった。肝心の下の家へは「わしの方からよう言うとくわ」とおばさんは請け負った。私に残されたのは新鮮な発見だった。理念などという支えがなくとも、家主のおばさんもそれなりに人情を備え、階下の若い主婦もいわば堂々と生きているのである。〉
私の方は実は週1そこで寝たが、他の日はずっと職業訓練校の宿直員だったから妻や娘のような実感はない。それでもそこで1年以上は暮らしたろうか。
2020年07月19日
(76)新刊書 私の拾い読み 「鶏舎建設へ」
新刊の出版前に自分はどうしていたかを思い出してみた。私には2018年『追わずとも牛は往く』時期の体験があったが、当時その内容をブログで断片的に紹介していた。今回も可能な限りやってみたい。もっともこの本の成り立ちの原本は、『今浦島にわか老後』という手記であって、古い(?)友人はかなり観ている人がいるかもしれない。
それに今回かなりの「ある前史」という部分を加えた。おそらくこれがないとなぜヤマギシがヒエラルキーと体罰を持ち出すに至ったかの過程が不明であり、私が25年もそこで「金の要らない」暮らしが可能だったか理解不能だろう。
ずばり行きます。
〈その後私たち一家は、本州三重県のJ本部に移動する。そこは別海とはまるで違った「研鑽生活」が待っていた。私には別海への郷愁のようなものから抜けるのが容易ではなかった。ただそこの休憩室には次のような標語が置かれていた。
「大きな鶏はたくさん食べてたくさん産み 小さな鶏を決して責めません
小さな鶏は少なく食べて少なく産み 大きな鶏を決して羨みません」
「見出そう自分の良さを 引き出そう相手の良さを 合わせよう互いの良さを
そこで味わう一体の良さの良さ」
私はなにか襟を正されるように感じた。ここはJ会理念体得を目指す道場のような雰囲気があった。また時折そのことを集中的に学ぶ「研鑽学校」への入学を勧められた。〉
実は私はこの個所で感動したのである。ずっと後になって。当時は当たり前であったこの「良さを見出す」という観点は、のちの「合わせる」一本のヤマギシでは見だされない。
それ以降のJ会の動きは、共同体なるものの形成にとってかつてない挑戦的な厳しい時期に入る。それは結果として従来の清貧、禁欲のイメージを突破することにもなった。いわゆる鶏舎建設と養鶏作業による村づくり(1980年前後から)の時代に入る。
その過程での少ない人員による労働強化で、当然何とかならないかという私ら現場と指導部との交渉があった。私より若い経営事務担当(のち指導部の有力な一員)の語りが今でも私には鮮烈に残っている。
「今はねえ、全体として建設にかなりの人員が投入されてるんだよ。今のように有精卵の需要が多いというのは、我々が真目的を達成する上で千載一遇の好機かもしれない。多少無理があっても、今の時期に鶏舎を建てておかないと間に合わないと思う。しかしいつまでもというわけじゃない。遠からず建設が少なくなる時が来る。そうしたらそのメンバーが飼育に戻って、もっと全体としてゆったりしてくるんだがなあ」
私はそこで感じたのは理念というより理想に近い心情だった。これが伝わってこないはずはない。しかしのちこのような裸の交流は次第に理念と組織体制に集約されていった。(続)