2021年01月06日

ブログ小説第2弾

             

 

創 作

 

面  接

 

福井正之

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぼくのこれまでの作品はいわゆる実録がベースになっている。しかし言うまでもないがいわゆる文学作品は実録ばかりとは限らない。これから紹介するのは全体がフィクションである。もちろん舞台は実顕地内外であるけれど。
 今回その気になったのは、いわゆる自分に近い人物の評価と自分の直感との食い違いであった。といってもこれは大きく言ってぼく自身の文化圏の狭さが背景にあったというしかない。ともかくこれまでの対象は実録作品であったが、今回はずばり「創作」である。
 ぼくはこれで大いに楽しめたが、もちろん創作過程のことである。内容はいうまでもなく、シビアーというしかない。それも独りよがりかもしれないが、あの世に近い人間の<特権>であろう。



okkai335 at 10:25|PermalinkComments(0)

2021年01月05日

「実顕地」での新刊個別購入

明けましておめでとうございます。

 

やはりこれからのことを少し考えてみました。

実は現「実顕地」メンバーの方から電話がかかってきたからです。

 

曰く「みんな金があるから、あの本はそれぞれで買うの。でも感想は言い合ったことはないわ」

 

 ぼくはそこまで行っているとは知らず、びっくりし、またその情景をとても不思議にも思いました。そんな本の貸し借りなんて別に当たり前だった「実顕地」で、みなぼくの本をそれぞれに<買って>いたのですから。

 

ああ、ここで少し断っておいた方がいいと思いますが、この「実顕地」はいわゆる普通の実顕地とちがって「とよさと」のことです。これはいうまでもなくあの新刊でも紹介しておいた2000年頃の脱会時に「生活援助金」を請求した「村」のことです。それ以降は、といっても2018年以降の新刊は、他の村人であればぼくは一応求めに応じて「周囲にわからないように」本を送っていました。ところがそこの住人はご存知のように<別天地>というのか、生活保障充分な雲上人のような存在でした。

 

その時にぼくなりに感じたのは、やはりこの本については配達不能な<奥の院>は存在しないということです。しかしその後遺症は歴然として残っていた。いわゆる個人が公然と購入できるが、その唯一の制約は「感想を語り合うことはない」という1点のようです。そうなるともはやその個々人次第だというしかない。

 

ところで電話で話し中でも、ぼくは相手の顔を思い出せなかったし、相手の女性もぼくの顔を思い出せないようでした。それだけの長―い時間が経過していたのです。それでも真っ先に出てきたのが上の話です。ぼくはいったい何が起こったのか了解できないままでした。その三日ほど前に妻宛になにがしかの生産物が贈られ、それがきっかけになっています。

 

ここまで来たらぼくは、ただこれからの推移を楽しみに見守るしかないでしょう。

 

とはいえこの後、ぼくに何か言いうるとしたらなんだろうかと何度か考えなおし、また書いてもみました。そのうち浮かんできたのが以下の文章です。昔ぼくなりに必死に書き綴ったものの1節です。まさに皆さんなら馴染みの「研鑽」(個人研鑽もあると思う)の対象として、あの本を読んでいただけるなら同時に。

 

【――またあの山岸氏の文章の中で珍しく昂揚した詩的美文調「そこには陽光燦き、清澄・明朗の大気の裡に……」の世界、「見るもの聞く声皆楽しく、美しく、飽くるを知らず……」の世界、「各々が持てる特技を練り、知性は知性を培い育て、高きが上に高きを……」の世界、これらの世界を実見し、体感しえたメンバーはどれくらい居たのだろうか? “心境的あるいは境地的”の人はどこかに居たのかもしれないが、残念ながら出会う機会はなかった。私などは時折その萌芽を実感しなかったわけではない。しかし大勢は、いずれそのうちに、の彼方に期待していたのみで、いわば願望をこめてその文を経典のように諳んじるだけに終わったのである。

すなわちその山岸氏が幻視した世界こそ、この運動の真目的であったはずだった。しかし、その想像上のピークをさらに高めることはできなかったばかりか、到達すらできなかった。それに骨格と肉付けを与えるために粉骨砕身してきたつもりだったが、ピークを高めたのは産業であり、組織であり、員数であり……といった手段的派生的なものばかりだった。

ああいう世界を実見・体感できるのは、おそらく山岸氏に次ぐ天才的想像力を持った特別人間しかいないだろうが、ただ凡人だけでもその「一体」力で“集団としての天才”に到達できると夢想したことはある。まあそこまでは無理にしても、普通人の集まりで考えればやはり必要な条件を揃えねばならない。すなわち相当な余暇と、それによる試行錯誤と、さらに集団的叡智を交流できる仕組みだった。いうまでもなくその出発点として先述した労働時間の短縮が絶対的な条件だったのである。(「ジッケンチとは何だったのか、2」)



okkai335 at 03:56|PermalinkComments(0)

2020年12月28日

時代動向としてのヤマギシ評価

 私は自分の新作についての評価が高いようだという感触を覚えて、そのことを所属するサークルの主催者のK氏に問うたことがあった。それは直接にはアマゾンやYahooの記事がそう伝えている感触があったからである。ところが実はそれ以前にこのK氏らは私の作品を最初に評価してくれたからだった(それを古い仲間たちの評価から私は失敗作だとみなしていた)。それもAmazonYahooに触れる以前に。

 そのときK氏が紹介してくれたのは、背景にはヤマギシ評価の社会的動向があると思うとして『カルト資本主義』(斎藤貴男)という著作だった。それも旧刊ではだめで最新の最新を選べという。そこで入手できたのは文庫本で、しかも最新記事は2020年の東京オリンピックの動向だった。

内容に入って後半部分にあったヤマギシ部分を読むと、かなりの企業が着目していたというのは確かに驚きだった。その関連で元松下マン二人が登場する(一人は参画)。ただ時期的に1995年前後(阪神大震災が入る)のヤマギシが最も好調に見えた時期が対象で、肝心の1970年以降の反対派登場、マスコミ批判、離脱者大量の時期までは届いていない。

 

したがってそこまでは日本企業の企業枠を超えた成功集団への関心の高さ、貪欲さはよくわかる。ただこの著者の真の狙いめいたものがありそうでよくわからない。そこで最初から読み直してみることにした。ところがそれからの「超能力」「永久機関」…等の世界は私には全くもってチンプンカンプン。

 

それからもはやどうしようもなく私は巻頭の文章とそれにどうも対応してくる完末の文章を必死に模索解読することになる。そこで今度は本気でこの本の最初はしがきから読み返し、その文庫版序章の「ある高校の現場で」「オリンピックのブラックボランティア」でようやっとこの著者の本音と展望を知ることができた。またそれと呼応するように、最終章「<カルト資本主義>から<カルト帝国主義>へ」で自身の危惧を率直に表明している(419P)

 

<今はただ、たまらなく怖い。本書で取り上げた様々な人物や企業、政府機関ばかりではない。彼らの煽動にたやすく操られ、一定の方向に突っ走っていくわれわれ日本人が、である。> 

<願わくは思考停止がこれ以上進まない社会であってほしい。私の危惧など見当外れの取り越し苦労でしかなかったと、後世の人々に笑い飛ばされるような日本であってほしい。>



註)やはり早めに断っておいていいと思いますが、私も最初に注目し、ずっとこだわってきたアマゾンや特にyahooの数字のことです。いうまでもないがこれは書店の広告であって、販売実績でもない。この時期本当に欲しいのは「書評」であって「広告」ではない。広告というのはある種の「フェイク情報」です。こんな知ったかぶりが今頃言えるのも、昔教師時代にお世話になった元教育系雑誌社編集長からの示唆でした。世間は広いというか、ほんとうにありがたい限りです。




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