2021年06月13日
詩論集(1)
人間の「位置」ということ 石原吉郎「墓」
「不思議な詩」というわけではないが、人間精神の不思議さとでもいうものを強く感じた。
・石原吉郎は、長いシベリヤ抑留から帰還してきた経歴があり、私はその評論も含めてある時期かなり傾倒した。今回久しぶりに触れたくなって探し、すぐ目に触れてきたのが以下の詩である。
< 墓 >かぎりなく
・この抽象性というか、ある種の難解さがとても魅力で、意味不明でもずっと言葉が沈潜する趣があった。この詩の主語はおそらく「位置」であって、「墓」ではない。その位置とはおそらく自分の人生の、時空を貫いて模索し「はこびつづけてきた」本来の位置というものだろう。そしてある段階で、「ふかい吐息のようにそこへおろした」とは何?
はこびつづけてきた
位置のようなものを
ふかい吐息のように
そこへおろした
石が 当然
置かれねばならぬ
空と花と
おしころす声で
だがやさしく
しずかに
といわれたまま
位置は そこへ
やすらぎつづけた
・私はとうてい詩人論を書く能力も材料もないが、入手できる手元の本「石原吉郎「『昭和』の旅」(多田茂治)で、私のこのところの問題意識にフットと重なる個所を見つけた。
「私は帰国後フランクルの『夜と霧』を読んで大きな衝撃を受けましたが、何よりも私の心を打ったのは、フランクル自身が被害者意識からはっきり切れていて、告発を断念することによって、強制収容所体験の悲惨さを明晰に語りえているということであります。このことに思い至ったとき、私は長い混迷のなかから、かろうじて一歩を踏み出す思いをしたわけです。」(「断念と詩」)
・軽々しく断ずることはできないが、私は一つはこのような断念のもとに、詩への道を踏み出して行った石原さんのことを想像する。それこそ石が「置かれた」位置だったのではないか。
・そこに私は小なりといえども感情移入できる感蝕がある。たしかに詩人のシベリア収容所体験の凄惨、過酷を、私のジッケンチ体験に対比するのは場違いも甚だしいかもしれない。しかし生活保障のあるあの<幸福社会>も、私にとってある時期から理念に閉塞された<自縛収容所>であった。
・ジッケンチ離脱後の私のそこへの告発(自責も含む)意識は、まず自己表現から始まる。その表現がある程度満たされてくると、告発意識は次第に収まってきた。そしてこの文にあるような<告発―表現>の分岐点のようなものが見えてくる。しかし時にはなにかあると告発の気分が蘇る。それが私に純粋表現への足止めにもなるようだ。
・実はこの詩人には「位置」という題のその出発に相応しい見事な詩がある。見事といっても私にはとても解読不能だが、一読、そのことばのこだまし方は尋常ではない。紹介したいが、なまじの心づもりでは申し訳ない気がするので、ここでは触れない。
・ただ石原さんは「位置」について、のち次のように触れている。
「私が『位置』ということばについて考えるのは、自分自身がそこにいるよりほかどうしようもないという位置であって、多分それは私自身、軍隊とシベリアに拘禁されつづけて来た体験がその背後にあります。」(同上)
・私はどこかほっとする。私はジッケンチについては、どうも「そこにいるよりほかどうしようもない」という感覚を意識し始めている。いつまで、かかることにかかずりあうのかと、他を探したこともないではないが、何かしら骨絡みにされたままである。よって私としてはそこをわが位置として<石>を置くしかないようだ。
そこで私が抱く夢想は、フランクルのような告発の断念が悲惨の体験を明晰に表わしうるとしたら、実はそれこそ真の告発になりうるのではないかという思い。これは私程度ではおこがましい夢想だが、そこにつながる何かを模索しつづけていきたいと思う。
・ちなみに少々外れるが、旧友が熱烈な「樹木葬自然公園&子どもの森」の推奨者で、そこに付け焼刃でない立派な理念をこめているのに感動した。こんなのがあったらいいなあと。
ところでこれはまったく理屈にならないし、所詮は自分の死後のことであるが、墓は石もいいなあと思うことがある。おそらくこの詩に触れてからである。
2021年06月09日
わが詩集(6)
<ゴールデンウイーク>
テレビは連休の道路の渋滞を
いつものように報じていた
おれはそれをテレビでゆったりと眺めながら
どこにも行かない幸福と
こういう連休が警備屋によって成り立つことに
ひそかな優越を感じていた
長いゴールデンウイークの宿日直もこれで終わり
さあおれもこれから遠くまで行こうか
金はないが道はどこも空いてるよ
へんだなあ
警備屋になるくらい遠くまで来ちまったのに
また遠くへ行きたいなんて
遠くとは いつもここから遠いところ
行きつけないところのようだ
<天 命>
風がやみ気がつくと、 階段の溝のいつも同じところに砂だまりができる
しかもかたちはいつも同じ波形
あんなにも漂っていた羽や綿毛すらが そこに落ちているではないか
そう すべて根のないものたちにも 落ちていく定めの場所があるようだ
なべて根を持とうとした人生を生きたつもりだが
ただ風に逆らい漂って お決まりの位置に墜ちているだけかもしれない
(「今浦島抄」より)
2021年06月08日
わが詩集(5)
<幻想 A>
挫折の前には熱狂と興醒めがあり
それらの前に幻想があった
人間は幻想を生みだし 幻想を享受し
その幻想を真実に化そうと働くこともできる
またその幻想を夢と知りながら
いつしか真実と錯覚することもできる
だからそれが幻想であることを暴くことは容易である
だが人間に幻想を紡ぎだす力があることを誰が責めることができよう
いうまでもないことだがこの幻想の力なしに何事も始まらなかった
<幻想 B>
それは実は執念のごときものではなくて
自分の書いた文章に酔えるからだという発見
すなわち何度読んでも飽きない部分が少なからずあるからなのだ
そしてもっと酔いたいのである
こんないわば自己陶酔的な感覚はちょっとやばいのではないか
とはいえあたかも自分の選んだ銘柄の焼酎の温度や調合を詮索しながら
もっといい酒として飲みたいかのようだ
それは文章に限らず、実はあらゆる創造と
それをヒントとする<生産的>というものにつきまとう慰藉であり
それが自己幻想というものを継続させる力なのであった