㊴第3部 <ジッケンチ学育>編㊶幼年部(2)<母子分離トラウマ>について 

2019年12月10日

㊵幼年部について

(1)幼年部の考え方

 学園の親から離れた環境での子どもらの集団合宿生活という点では、たしかにそれほど特異なものではない。ただその合宿が小学校入学1年前の5歳児から始まるということは、ほとんど他に類例を見ない特異なものだろう。それがヤマギシズム学園幼年部だった。私の学園や幼年部についての基本的な評価としては、ジッケンチ評価とあまり変わりはなく、「マイナス面もあったにせよ、評価すべきこともあったのではないか」という忸怩たる観方になる。もちろんこの評価には私自身のジッケンチ離脱にともなう<視点移動>が大きく影響しており、評価の部分がだんだん薄らいできたのは事実である。

 その趣旨の一端について『愛児へのおくりもの』(ヤマギシズム出版社1987/1)から少々引用する。

「――小さい頃からかわいがられ、満たされて育った子どもは、自分から親のもとを離れていこうとするし、離れていても安定しているのである。二,三歳の子がとなりの家に遊びに行って、なにかあって泣いて帰ってくる。お母さんの膝の上でしばらく抱かれて泣きやむとまたとなりの家に遊びに行く。この子はどちらも満たされているのである。この離れている距離と時間が年齢とともに長く遠くなる。幼年部もいわばこの親子の往復運動の中に位置づけられていて、よく心配されるように往きっぱなしになるのではない。親は子の往復運動の一方の点であり、いわば港であり、ヤマギシ養鶏でいう寝枠のようなものである。ところが子どもの家庭環境はしばしば、この<出港>が限定的か、閉鎖されているかである。そこには親の盲愛や所有愛、親の都合、頭だけの子離しがつきまとっている。」
「この自分を存分に展開するということが保障されるためには、広大な山野と動物たちと、そしてこれは不可欠のことであるが、腹の立たない人たちが彼らの周囲に必要なのである。<金の要らない仲良い楽しい村>のヤマギシの村はそうした環境の必要に充分応えうるであろうし、ここでなされる一年の生活は、子らの一生を通じて折に触れて蘇ってくる原体験のようなものになっていくであろう。」(「なぜ幼年部なのか」福井記述部分)

 またこの背景について、実顕地ではいわゆる「蝶よ花よといじめない」とする考え方や経験が存在していた。さらにもっと短期ではあったが就学準備的な合宿があり、また幼児を農繁期の必要に応じて預けあったりする「どの子もわが子」的な一体感覚が育まれていた。それが断行可能とする一つの大きな根拠となっていたと思う。私自身も教育学部の専攻ではあったが幼児教育自身の経験はなく、むしろ村でのそのような環境に畏敬の念を覚えていた。

 しかし他方では、あんなにも長期間(5歳の1年の間、親に会うのはほぼ3か月間隔)親から離れる必要があったかどうかについては、今の私はいささか保留状態にある。たしかに、幼稚園等では「お泊り保育」的なものはなかったわけではないが、この長さは世間常識からいってもかなり隔絶した感を与える。それ自体は常識批判が通例であったヤマギシでは特に問題にはならなかった。ただ私には当初それほどでもなかったいくつかの問題点を次第に感じるようになってきた。そのことをふり返ってみれば<よくぞやれたものだ>という感慨を禁じえない。

 それは一つには、いわゆる<母子分離トラウマ>的な一般からの危惧(次節で取り上げる)を引き出しやすいことであった。ただその本格的な流れはほぼ1990年代の半ば以降であり、幼年部創設期の85年頃は逆に幼児期子育てを支配した母子密着スキンシップ感覚からの危惧が主であった。その母子分離への漠然とした不安からすれば、5歳児のしかも長期合宿を伴う子離しは驚くべきことであったろう。

 この点については私は幼年部1期生から村内メンバーの「里親」をつけることにこだわってきたが、それが不要とのちの年度かどこかで(私は初期を除いて運営面にはタッチせず、広報拡大が主になっていった)決められたときに感じた落胆と危惧を記憶する。もちろんそれによって何らかの問題があったと聞いたわけではない。

 二つ目には、子どもの生長の観点とは別に、親・家族のありようとして、あれだけの長期間5歳児が母親から離れていることが望ましいといえるかどうかという問題。たしかに5歳の親離れ生活はいわば幼少の母子密接必要時期(女性就業の観点から異論も多いようだが、いわゆる3歳まで)を越えており、離別についての周到な配慮があれば基本的には可能であると考える。

 ただ同時に5歳児が家族の一員として親や周囲からさまざまに学び、影響を受け、家族の一役を果たすということ。また逆にその姿を通して、親(特に母親)が慰藉的な影響のみならず、親としても生長しながら子の真近での<生育の証人>となることの意義は、決して小さいとは思えないことである。

 私がそう考えるに至ったのは、血のつながった実親の(子どもを一生引き受けようとする)誰にも代わりえない力や役割の大きさについてだった。それは私自身がジッケンチを離れ、生活の状況がどうなろうと、母親たちがわが子の総てを引き受けていこうとする本能的といってもいい姿勢から感じてきたことである。(もちろん昨今の育児放棄のような様々な条件によって、実親のすべてがその役を担いうるわけではないことを留保しつつも)。

 そして本来はその<放し任せる親>と<引き受ける親>との対等一体の親愛関係こそ、幼年部成り立ちの真実があった。にもかかわらずジッケンチの優位性を前提に実親の役割を事実以上に軽視し、ジッケンチ「親」(=係り)はその限界を謙虚に知って「身代わり」をやるという考えは乏しかったのではなかろうか。またかれらを実親以上に素晴らしく思い思わせること、そこに当時の私の広報活動の一つの役割があったと認知する。

 といっても、そのような母子分離への不安や<生育の証人としての親>という観点を超えて「子放し」が断行されたのは、子どもの生長への強い期待からであった。たとえ他人任せであってもこの1年の子どもらの経験は、幼少年期のみならず一生を貫く宝となるであろう、と。私自身の当時のイメージでいえばいわゆる<幼年部効果>は「おふくろの味」が一生続くように永続的なものと考えており、相当な期待感を抱いていた。

 しかしその<成果>を一応表面的に確認できるのは、親が参画せず地域に戻った子どもらの場合、せいぜい1,2年のことではなかろうか。もちろんこれは生活習慣や健康面の育成の面、さらに物事への意欲、対人的社会性等であって、精神の深いところで何が刻印されたのかは残念ながらよく解らない。私自身は幼年部1期生が高校生くらいになる状態までの情報はある程度聞いてはいるが、これも数少ない伝聞情報であり、組織的な調査による確認がなされたわけでもない。したがって基本的には成育過程の様々な環境変化によって<幼年部効果>は相殺されていく部分が大きかったのではないか、と推測する。その点私は同調の人々への期待を裏切ってきたと思う。

 もっとも幼年部が設立時には阿山だけだったのが、豊里をはじめ各実顕地で軒並み設立されていったのは、当時の実顕地のみならず親、会員、支持者たちの熱狂的というべき教育理想主義の高揚からであった。もちろんそれには学園での子どもらの育ちが、それなりに確認され伝播されていったという<実>があったと考える。(2012/3)



okkai335 at 13:53│Comments(0)

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