㊷幼年部(3) 元幼年部生映像作品『アヒルの子』について㊹村岡到『ユートピアの模索』から

2019年12月16日

㊸幼年部史へのある推測 このタイムラグは何?

(2014/5)あれから2年、ドキュメンタリーという映像を伴ったあんなに明解な説明に出会いながら、私には「そうかな?」となお承服できない部分が残存していたようだ。ともかくあれ以降、私は<謝罪行脚>という自己命名の元幼年部生親への問い合わせや訪問を企てる。しかし母子関係では小規模の離れる時の不安や帰参時の甘えの症状以外ははっきりした事例には出会っていない。それでいつしかそれも中断した。

 それでも残された一期生ビデオでの子どもらのあの笑顔、時には土にまみれた収穫作業、それに描かれた絵が太陽と花とニコニコ顔。逆にいったいあれは何なんだ、という違和感は残る。あれも子どもらの日常ありのままの天真を映していて、決して当時の<いいとこ撮り>ばかりではなかったと思い返す(私も時折撮影に回っていた)。そしておそらくあのドキュメンタリ-映画の主人公Aさんの時期の幼年部広報ビデオも同じような一期生の映像となっていたにちがいない。                

 
  そこでここはちょっとした微妙な感のようなものだが、一期生の時期(1985年)からAさんが体験しのちにトラウマ発症までに至った幼年部の時期までにかなりの間がある(概算だが2010年映画公開時はAさん20歳として幼年部卒はその14年前1996年頃、ほぼ10期生の頃になる)。その頃村に在った私にはトラウマ等の連絡は皆無だった。ただこの点についても、私の阿山での初期幼年部の体験と環境はその後の幼年部にとっても同じようなものだったかどうか?

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   あの著書『愛児へのおくりもの』の私の記述部分は、私自身の一期生の記憶と世話係だったBさんの記録に基づく。しかもあの本はかなり売れたらしい(出版社から聞いた数字は残念ながら思い出せない)。しかもそのBさんはとてもやさしい人だった(その「やさしさ」を基準に選ばれたらしい)。おそらく普通の幼稚園や保育園では子どもらを呼び集め、あれこれの「いけません」を声高にアッピールできる、いわゆる指導性なるものが求められるだろうが、彼女にはそれがなかった。

 いわゆる学育理念としての<教えない>という点では、彼女は係としての取り組み以前にうってつけの女性だったのである。もちろん子どもらが行き詰まってから適宜な励ましの声かけは出てくるのはいうまでもない。そして彼女は今でも「あんな楽しかった時期はなかった」と思い返す。

 
   私はこのことをどう解したらいいのかずっとわからなかった。つまり私は幼年部での子どもらの生活感覚とそこを出発した後の母子分離的な兆候とを時間的にもずっとくっつけて考えていた。しかしそこにどうもタイムラグ(時間的ずれ)のようなものがあったのではないかと考えだす。

   すなわちこの一期生ないし初期幼年部の環境はいわば<至れり尽くせり>だったのである。子どもの母子分離的兆候が登場するのは実はかなりのちのことであって、当初はそういうことがなかったのではないかという推測のことである。
 
  この点についてまず明らかなのは受け入れ人数のことである。一期生は外からの子8名、実顕地の子12名の計20名で出発している。後からでは考えられないくらいの少数である。また同時に明確な指標となってくるのは、当時のヤマギシ会員たちの地域活動のことである。当時の地域活動の中で、子どもらはおそらく随時会員家庭の往来が当たり前であって「どの家もわが家」に近い状態であったと推測する。こういう環境ではどうしても母子分離的な障害が起こるとは考えられないし、それがそのまま幼年部につながっていたと考える。

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 ところでBさんの「あんな楽しかった時期はなかった」という思い出と関連して、少し学術的な解説に出会ったので紹介しておく。子どもらがどのように作業や日常の生活技術に習熟したようでも、主体である子どもらは遊びを遊んだだけだったという側面に関わる。
 註)矢野智司『贈与と交換の教育学』より

「遊びはもともと有用性の秩序を否定し、エネルギーを惜しげもなく過剰に蕩尽する自由な行為である。・・・そこでは、自分が遊んでいるというより、遊び自体が生き物のように自己展開していく。そして、遊びのなかで、子どもは世界と自分とを隔てている境界が解けるという自己の溶解を体験する。このことにより、遊びの体験は、日常以上に鮮烈なものとなり、強い現実感を与えてくれることになる。」

  おそらく一期生の子どもらの心に在った物語は、栗さんや友との仲良しやお母さんの笑顔だったのであって、達成や習得という目的にあったわけではなかろう。このことにどれだけ深い根拠を感じ、その意味を貫くことができたかという視点で、私は改めて幼年部というものを見直しみたくなってくる。というのはそういうはっきりした自覚は私にもなかったし、そうである限り大人はいつしか<有用性という誘惑>に足をすくわれていくであろう。いわば有能で指導性あふれる世話係ほどその可能性は高いし、そしてそういう誘惑は学園当局や拡大部や親にも溢れていたように思う。

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 ともかくその後幼年部の応募は急激に増え、各地に新幼年部が増設されていった。それに伴ってマイナス評価も次第に出てくるようになってきた。

  例えば、私の学生時代の旧友が三重地区の幼年部を参観しての感想は、「子どもらはどうもモノトーンだな。子どもらしく生き生きしていない。目が死んでいる」という厳しいものだった。もちろんこういう感想は主観的なものでタイミングとか時期とかいろいろ勘案しなければならない。「そりゃあないよ」と私はずっとうっちゃっていたし、この頃私は拡大専門で、学園の実態を確かめてみる機会はほとんどなく、かつまたそこまでやってみる必要を感じなかった。しかし村出後のあのドキュメンタリーを観て以降「もしやありえたのではないか」とようやく気になってきた。

 それ以来、子らにもよるが、親離れの虚脱やさみしさを受けとめきれない様々な問題点があれこれ出てきたのではないかと想像する。少数の係による<大部屋育児>等のこともあろう。

 したがって現在ではあの『愛児へのおくりもの』で記述できたような質の子どもらの<楽園>は、初期のように子どもが小人数で、それに相応しいお母さん的な係(多めに)、さらに地域と実顕地との里親的なつながりの存在が不可欠だったのではないかと考えるに至っている。

 もちろんこれらはほとんど推測であって、実証できたものではない。今のところそれなりに説明がつく仮説にすぎない。そしてその負の想像の膨らむところ、高等部一期生の果たした役割と同質のものを感じざるをえない。高等部一期生も、幼年部一期生同様ギンギラの「至れり尽くせり」の存在だった。そしてその結果は、期待通りより大量の入学生の存在だった。しかしそれへの受け入れ対応レベルがいかに困難だったか。決して肯定できるものではないが、のちの個別研や体罰にまで届いてしまいそうなのである。
(2014/5)



現在からの追記)
・昨年、ほぼ30年前に娘さんを幼年部におくられたお父さんから連絡があった。その後ずっと娘さんが「今も拭い去る事ができない」痛みを抱えてこられ、その親としての苦しみを伝えられてこられた。私自身も驚き、その思いに到底及ばないものの、深く感じるものがあった。伏して感謝したい。
・最近元幼年部一期生のCさんと電話で話す機会があった。当時のBお母さんが昼寝に入る前に、ギターを弾いておられた様子を懐かしそうに語ってくれた。



okkai335 at 02:14│Comments(0)

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