2020年01月13日
㊿ある年賀状から
今回私の方から以下のような年賀状を出した。
「年頭のねがいとして
――やさしさや いたわりや 触れあうことを
信じたい心が もどってくる――
『あの鐘を鳴らすのはあなた』より
自分には不似合いだと思いながら、年頭の言葉にしたくなりました。
老耄を越えんがための自彊術体操に、カラオケ通いがきっかけに
なっています」
それに対し、ある旧友夫婦それぞれから年賀状が届いた。
普通は連名が多いだろうに。
だんなの方は私より年上だが、例年のように天下国家どころか、
地球人類の未来への危惧を論じて颯爽。時間的なずれもあってか
私の年賀状への反応は特にない。
奥さんの方からは、ずばり「鐘を鳴らせるのは<女>だということを
ようやく解りましたか?(笑)だんなは一生解らずに認められずに甘っ
たれて“いき”そうです」とあった。
おう、やるじゃないかという賛意と、同時に少々ずきりとも来た。
そういえば だんなの賀状ののっけから
「国連サミットで16歳少女が各国指導者の無策を糾弾。若者の輪は
広がる」とあったから運動としては賛辞を惜しまない。
同時に彼は教師時代から番長クラスと対決して、その人望はとても
大きい。そのように教師を辞めて以降もそのつながりは半端ではない
から、私には到底まねができない。そういう中での奥さんの苦労も大き
かったと想像される。
ただ旧友の場合そういうことを当たり前にすることで、どこか逃げている
節も感じてしまう。もちろん私自身のことでもある。最近特に妻の世話
が増えて来ている私の実態では、「信じたい心」どころかもろその「いたわり」
の渦中にある。
言いかえれば彼女はもろ「鐘を鳴らして」くれている(いた)のである。
そうなると私の年頭メッセージはどういう位置になるのか? 社会趨勢への
一般的な期待とそれへの関与の意思を書いたのはまちがいない。
しかしわが家のこととしては自分の念頭になかったと思う。これもいつもの
私の「もうしわけない」という反省癖で、「いたわり」については意識して
いたが肝心の「愛しあう」とか「ふれあう」という<対>があることを見過
ごしていたのではないか。
阿久悠の「鐘を鳴らす」とは、そこまで意識されたものであろうとあらためて
感じる。そしてその担い手がしばしば女性であることも。
註)以下に歌詞
1 あなたに逢えてよかった
あなたには 希望の匂いがする
つまずいて 傷ついて 泣き叫んでも
さわやかな 希望の匂いがする
町は今眠りの中
あの鐘を鳴らすのはあなた
人はみな悩みの中
あの鐘を鳴らすのはあなた
2 あなたに逢えてよかった
愛しあう 心が戻って来る
やさしさや いたわりや ふれあう事を
信じたい心が 戻って来る
町は今砂漠の中
あの鐘を鳴らすのはあなた
人はみな悩みの中
あの鐘を鳴らすのはあなた
町は今眠りの中
あの鐘を鳴らすのはあなた