㊾詩篇から⑷ 事故哲学(51)「事故哲学」からの幻視

2020年01月13日

㊿ある年賀状から


今回私の方から以下のような年賀状を出した。

「年頭のねがいとして
――やさしさや いたわりや 触れあうことを  
信じたい心が もどってくる――
『あの鐘を鳴らすのはあなた』より

自分には不似合いだと思いながら、年頭の言葉にしたくなりました。
老耄を越えんがための自彊術体操に、カラオケ通いがきっかけに
なっています」



それに対し、ある旧友夫婦それぞれから年賀状が届いた。
普通は連名が多いだろうに。
だんなの方は私より年上だが、例年のように天下国家どころか、
地球人類の未来への危惧を論じて颯爽。時間的なずれもあってか
私の年賀状への反応は特にない。

奥さんの方からは、ずばり「鐘を鳴らせるのは<女>だということを
ようやく解りましたか?(笑)だんなは一生解らずに認められずに甘っ
たれて“いき”そうです」とあった。

おう、やるじゃないかという賛意と、同時に少々ずきりとも来た。
そういえば だんなの賀状ののっけから
「国連サミットで16歳少女が各国指導者の無策を糾弾。若者の輪は
広がる」とあったから運動としては賛辞を惜しまない。

同時に彼は教師時代から番長クラスと対決して、その人望はとても
大きい。そのように教師を辞めて以降もそのつながりは半端ではない
から、私には到底まねができない。そういう中での奥さんの苦労も大き
かったと想像される。

ただ旧友の場合そういうことを当たり前にすることで、どこか逃げている
節も感じてしまう。もちろん私自身のことでもある。最近特に妻の世話
が増えて来ている私の実態では、「信じたい心」どころかもろその「いたわり」
の渦中にある。

言いかえれば彼女はもろ「鐘を鳴らして」くれている(いた)のである。
そうなると私の年頭メッセージはどういう位置になるのか? 社会趨勢への
一般的な期待とそれへの関与の意思を書いたのはまちがいない。

しかしわが家のこととしては自分の念頭になかったと思う。これもいつもの
私の「もうしわけない」という反省癖で、「いたわり」については意識して
いたが肝心の「愛しあう」とか「ふれあう」という<対>があることを見過
ごしていたのではないか。

阿久悠の「鐘を鳴らす」とは、そこまで意識されたものであろうとあらためて
感じる。そしてその担い手がしばしば女性であることも。





註)以下に歌詞


1 あなたに逢えてよかった
  あなたには 希望の匂いがする
  つまずいて 傷ついて 泣き叫んでも
  さわやかな 希望の匂いがする
  町は今眠りの中
  あの鐘を鳴らすのはあなた
  人はみな悩みの中
  あの鐘を鳴らすのはあなた
  
2 あなたに逢えてよかった
  愛しあう 心が戻って来る
  やさしさや いたわりや ふれあう事を
  信じたい心が 戻って来る
  町は今砂漠の中
  あの鐘を鳴らすのはあなた
  人はみな悩みの中
  あの鐘を鳴らすのはあなた
  町は今眠りの中
  あの鐘を鳴らすのはあなた



okkai335 at 12:13│Comments(0)

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