2020年02月09日
(56)冬に 蒼穹の青閉じ込めて
回想(『魂の領分』2016/9)
先月末旧友が亡くなった。私と同年齢の75歳。学生運動時代からつながりがあった。
もうこういう年齢の逝去の報がちらちら始まっていたが、こんなに身近なのは二人目だった。
何かあの世にいっしょに身がもがれていくような、きつい惜別感がある。
特に半年前に彼との間で忘れることができないことがあった。これまでも年に2,3度ほど
電話があったが、だんだん音声不明瞭になり、今年になってほとんど聴き取れなくなった。
当て推量で会話を重ねたが、私の音声はいたずらに高くなるものの、彼のことばはまった
くわからない。
その時は夜中だったので、翌日日中、改めて本人でなく奥さんに近況を聞いてみた。初め
て知ったが、小脳に萎縮のある、治療法のない難病らしい。終日車椅子で、室内移動。つ
いこないだまで野菜づくりが楽しみだった男である。
ただ心配だった大脳までは無事で、今は前から続けてきた俳句習作が唯一の楽しみだった。
私も彼ほどの年期はないが、句作上の交流もあった。それからしばらくして本人から電話が
あった。大丈夫かと危惧したが、日中のせいか昨日よりは少しましで、単語の二,三割はあ
る程度聞き取れる。
そのうち雰囲気が変わって彼は一音一音ずつ(一語ずつではない)私の反応をゆっくり確認
しながら、何かを伝えようとし始めた。ハ、ク、ボ、タ、ン、シ、ロ、ト・・・・・
ようやっと解った、彼が最も伝えたかったのは俳句だったのである。
白牡丹白といえども紅ほのか
聞きとれた名は高浜虚子の句らしい。それで色というものへの彼の執心を伝えたかったようだ。そして続く。
訪ね来て道は二つにカンナ燃ゆ
蒼穹の青閉じ込めて軒つらら
時間がどれほどかかったのか。この三句を伝えるために彼は必死だったし、私も聴き取るために必死だった。ちょっとすごいというか、私には鬼気迫る体験だった。しかしまたなぜ私なのかという思いも残った。
こういうのをなんというのか、口語伝達とでもいったらいいのか。ふだん句集を詠むのとはまったくちがう。一句一句である。いや一語一語である。いやそれともちがう、まさに一音一音なのであった。おそらく俳句という文芸は、そのためにも用意されていたのかとすら想わせる。
したがってたったの2句であるが、ただの2句ではない。
私は、分れ道に咲くカンナがなにを意味して燃え上がっていたのか? 分れ道に出逢う度に問いかけるだろう。
また蒼穹の青に何を込めたのか? 失うべからざる美しい記憶だろうか。あるいは生への鮮烈な意志だろうか。それもつかの間に溶けゆくつららに。
そして人間生命力が最後の極限において意思するもの、それは自己精神の表出・伝承ではなかろうか。そんな感慨が重石のように残った。そして私も同じ状況に立ち至ったとき、そのようなことばと友が在るだろうかと思った。