(59)最初の自己哲学 「自分を知りたい」(61)元学園生の「自己表現」のリアリティ

2020年02月24日

(60)悲しみを「内に留め」ない

   話の流れからすれば少々後戻りになるが、やむをえない。資料探索はこちらの思惑通りにはいかない。「怒り」とよく並ぶ「悲しみ」の記録に出会ってしまった。


<ふと蘇ってきたのはある葬儀の場面だった。昔まだ実顕地という呼称が新鮮だった頃、学育のわが子の病死に対してその父親は代表としての挨拶に立った。
 それが途中、さめざめと嗚咽し泣きだし、したがってその挨拶はしばしば中断した。彼はおそらく創設期からのべテランメンバーだった。しかしぼくも含めて少々鼻白んだ参列者もいたにちがいない。
 まだシンマイに近いぼくも「へーヤマギシでもこんなに泣く人がいるのか」と怪訝に思ったほどである。
 しかし今そのことを書いているぼくの目は涙ぐむ。彼はその悲しみを見事にも「内に留め」なかったのである>

 
  いうまでもなくムラ離脱後のぼくは、自分の喜怒哀楽存在の実感を慎重に確認するプロセスがあった。その中で特講体験を経ていた「怒り」が最も大きかったが、「悲しみ」の部分も当然意識上にあった。ところがその部分でぼくが頼りにしていた存在根拠は、ハレハレしかなく哀の感情がなければ、どうして山岸氏が書くように「他の悲しみを自分の悲しみと思う」ことができるだろうか、という疑問だった。

 これは実はヤマギシ初期の拡大用パンフ「二つの幸福?」の中で書かれていた部分である。しかしこの資料は次第に使われなくなり、これも復習になるが山岸さんのあの有名な「幸福一色 快適社会」の箇所が主になってくる。曰く

「……万一不幸と感じる事があるなれば、それは何処かに間違いがあり、その間違いの原因を探究し、取り除くことにより、正しい真の姿に立ち還ることが出来るのです。幸福が真実であり、人生はそれが当たり前のことであって、不幸は間違いです。」

 これが以降のハレハレイズムの理念的根拠になっていくのだが、ぼくはムラ出後の総括過程でこの部分では執拗に山岸さんは「万一不幸と感じる事があるなれば、それは何処かに間違いがあり……」と述べ、「不幸と感じる」こと自体を否定していないことにこだわってきた。

 いうまでもなく「不幸は間違い」イコールダメという観念が固着し、そのことが研鑽されることなく抑圧・隠蔽されてきたことを否定できないと考えてきた。
 さらに「悲しみ」感覚を目いっぱい肯定する社会一般では、ハレハレイズムは通用しないという思いもあって、その辺のヤマギシさんの考えを探して「二つの幸福?」の部分にたどり着いていた。

 前置きは長いが、ぼくが上述の葬儀の場でジッケンチメンバーの父親が「堂々と泣いた」ことに深く感動していたのである。



okkai335 at 04:52│Comments(0)

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
(59)最初の自己哲学 「自分を知りたい」(61)元学園生の「自己表現」のリアリティ