(60)悲しみを「内に留め」ない(62)(続)元学園生の「自己表現」のリアリティ

2020年02月28日

(61)元学園生の「自己表現」のリアリティ

 やはり書いておくしかない。もうこのブログも「回顧」も2巡目に入り、それもそろそろ終わる頃になって湧き上がってきた思いである。つまり、ごく当たり前のことに気づいたというか、いやずっと前から気づいていたことだったが、最近の「自分を知る」というテーマになって、もろ湧き上がってきた。

 それはこれまでぼくのあまり触れてこなかった分野のことである。しかしぼくの先のない年齢のこともあろうが、事の本質的な理として必然的に顕われてくる事実ということになろうか。それも現在では、ぼく自身の自己総括の重要な帰結としてあらためて確認表明すべきことだと思う。ずばりいえば「元学園生たちの自己表現のリアリティ」というテーマになるだろう。

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 事を順序だてて整理してみたいので、そのチョウ最初の発端から上げておく。ぼくの初期のブログ集『時空遍歴』(2014/8)に次のような記述がある。

<もう1年以上前のこと、ヤマギシで共に活動し、同時期に離脱した旧友がのちの私のHPを観ての感想に、「10年位前で時間が止まってしまっているような感じ」とあった。私は「そうかもしれない」とその感想に基本的には同意し、あらためて「おれはなぜ、いつまでも過去にこだわるのか?」あれこれ考えてみた。彼の言うように「年月を積み重ねて、ほとんどの子どもたちは自分の人生をつくってきて」おり、大人たちにとってはそのことはもっと急がれていた。>(「いつまで過去にこだわるのか?」)

 この記述はぼくにとって忘れがたい「後ろ向きに歩みながら、遠ざかっていく<あの景色>をあれこれ考え記述してきた」という叙述のはじめの部分にある。その時のぼくは、親や大人たちは学園生のことでなにも果たしえないまま、そんな客観的なことがいえるのかという気持ちだった。たしかに体罰その他の問題を抱えながら、元学園生はおそらく必死に自分の人生を構築してきたにちがいない。

 中には体罰等で再起不能に近い障害を受けた子どもらもいたであろう。それはわが子のことも含め、知らない感じられないことではなかった。しかし親や大人たちはぼくも含めほとんど何もできなかった。それでもぼくはそのことを調べ考えるための「止まったままの時間」を動かす気にならなかった。生活確保の最低限の営みをのぞいては。

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 ところがあれから6年(ムラ離脱後ざっと10年)たった現在、ぼくは「自分の人生をつくってきた」元学園生の中で、どういったらいいのか実に目覚ましい生長を遂げた事実にもろぶつかっている。それはずばりぼく自身がこの間ずいぶん影響を受けた「自己表現」の中で元学園生のものがかなりあったことである。

 少々整理しておくと、ぼくのこの間の大きな気づきとして以下の認識がある。
①自己哲学から事故哲学へ
②自己批判から自己表現へ

 ぼくの実感としては、この感覚でこの10年<自己批判意識も込めながら、自己表現を持続>してきた。しかしそのことの意味について最近ようやっと新たな地平が見えてきたと感じる。しかし実はすでに心ある元学園生がそのことを実行してきているのを気づくに至った。

 しかもその中で特に刺激を受けたのは以下の三点であった。いずれも「自己表現」を超えた有意義な作品として世に公認されたものばかりである。

・ 元幼年部生小野さやかさんの映像作品『アヒルの子』
・高田かやさんのコミック作品『カルトの村で生まれました』
・松村亜里さんの著作『世界に通用する子どもの育て方』

 こう書いてしまうとちょっとセンセーショナルな雰囲気になるが、それがぼくにはあまりにも自然だったので、取り立てて指摘する必要を感じなかった。しかしこれらの作品は、ぼくのこれまでいわば行き詰まっていた問題意識を解明し、道を指し占めてしてくれたのは間違いのない事実である。

 しかも現在はっきり感じているのは、これらはいずれも「自分を知りたい」「なぜ?」という直截な動機から発しており、その点ではぼくの出発点とほぼ同じになる。ただはっきりちがうのは、ぼくのように<自己批判やヤマギシ総括>の回り道なしに、ずばり<事故哲学と自己表現>に踏み込んでいることだと思う。(以下続)



okkai335 at 03:42│Comments(0)

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