(61)元学園生の「自己表現」のリアリティ(63)元学園生の「自己表現」のリアリティ(Ⅲ)

2020年03月01日

(62)(続)元学園生の「自己表現」のリアリティ

  玄関先のつもりがのっけからチョー奥間まで引きずり込まれたという思いもあるかもしれない。仕方がない、ぼくの歩みがのろすぎるからである。ただ先回の末尾をくり返す。彼ら(元学園生)のほうが「ぼくのように<自己批判やヤマギシ総括>の回り道なしに、ずばり<事故哲学と自己表現>に踏み込んでいる」から。いうまでもなくぼくは学園生に比べ、あそこに長く(ほぼ二十数年)いすぎたからである。

  当然その前に、その学園生たちの自己表現(=作品)のぼくにとっての深重な意味を明かしておく必要がある。もっともこれまでずっと付き合っていただいた方には、ほぼ了解済みのことであろうが。

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  ちなみにもう少し解説を膨らます。

A)元幼年部生小野さやかさんの映像作品『アヒルの子』(2010年)
  主人公は思春期に「自分が何者か分からない」「自分はいつ死んでもいい無価値な人間だ」と悩み苦しんだ。   その理由として「幼年部入学で親に棄てられた」「だから棄てられないよう『いい子』を演じてきた」という。
   これ以前ぼくは、すでに5歳にもなっている幼年部生には、母(親)子分離トラウマはありえないと考えてきた。しかし本人自身は「親に捨てられた」という感触だけで幼年部の記憶はなく、登場した元幼年部生の感想にも触れ、その可能性はありうるのではないかと感じてきた。そのきっかけになった作品である。(このブログ㊶㊷参照)

B)高田かやさんのコミック作品『カルトの村で生まれました』(2016/2)
  あの子どもら自身による、しかも実に明々白々のコミック表現! 訪問情報でもインタビューでもない。
  ずばりその一端。
   コミックの最終エピローグ直前に、「世話係は鬼だ!!」「殺!」「俺らってさ、みんな一回は世話係さん殺したいと思ったことはあるよな」「あるある」・・・という記述がある。よくぞ描いたりともいえるし、また歴史に対し隠蔽不能な切実・重要な事実でもあると思う。
 
  さらに、これまで無事安泰で学育係に任せきりでいた、無頓着な親自身への批判を強烈に意識させられもした。

C)松村亜里さんの著作『世界に通用する子どもの育て方』
   今のところぼく自身を除いて、この本を読んだという情報は受けていない。ぼくはこの本の紹介を以前のFBに連載した論考で4篇ほど紹介している。一見育児教育本に思えるがとんでもない。現代心理学の精髄をしっかり踏まえた、しかもわかりやすい文章になっている。
  ぼくは自分の中に定在していたこれまでの子育て、教育、学育認識のかなりの部分の再検討を迫られた感がある。中でも大きかったのは、これまでのぼく(ら)にあった「自己批判」必須感覚が完全に払しょくできた点にある。


  もちろんこれらの作品は突然生まれたものではない。ぼくらの前には素晴らしい結果表現が残されているが、どれも自分自身への必死の問いかけから始まっているとみて疑いない。自分があんなにも悩み苦しんできたのはなぜか? と。

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  このことは先回あげたぼくの旧友の「ほとんどの子どもたちは自分の人生をつくってきて(おり)」という把握とどうつながってくるのか?  これはやはり普通「食っていける状態」を指すだろうが、この3人はそれだけではない。その部分にさらに才能実現が直結しているからである。

   こんなことは普通滅多にないことで、成功したとしても才能自体の開花までは届くかどうか。普通は才能を犠牲にすることが多い。数多い元学園生の中でこういう子らが登場しても不思議なことではないともいえるが、ぼくにはどうしてもそう思えない「事の本質的な理」を直観する。

 不肖ぼくの場合は、夫婦住み込み管理員で食いつないで、下手の横好きで物だけは書いてきた。しかしそこに貫かれてきた心象は<INよりもOUTの究極の「学育」>のイメージだった。この感覚と似たものをぼくは彼女たちの作品から感じる。(以下続)



okkai335 at 17:37│Comments(0)

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