(65)この不可解の魅力――『力なき者たちの力』(67)自分の中にもある「嘘の生」ーー『力なき者たちの力』

2020年03月20日

(66)ウソくさいものへの直感ーー『力なき者たちの力』

   (承前)<……このようにしてポスト全体主義体制は、人間が一歩踏み出すたびに接触してくる。もちろん、イデオロギーという手袋をはめて。それゆえ、この体制内の生は、偽りや嘘ですべて塗り固められている。官僚政府は人民政府と呼ばれる。労働階級という名前の下で、労働階級が隷属される。人間に対する徹底的な侮辱は、人間を完全に解放するものとしてなされる……>(19~20p)

 この部分は当時のチェコの現実だったろうが、ぼくが日本の日常感じてきたウソ臭いものとの接点を感じる。

 例えば今時期の労働者の春闘である。今時期の春闘はほとんど筋書きが予定されていた資本と労働トップのシャンシャン合意であろう。公務員の場合はもっと過酷で、例えば1970年代教師だったぼくは早朝1時間カットのストに参加し処分された記憶がある。つまり公務員の場合は「人事院勧告」等で保証する(実質は賃下げ)として争議禁止の合法化(憲法による労働基本権の剥奪)がなされてきた。

 ところがチェコの場合は、もはや政府は社会主義政府としての「人民政府」であり、それ以外の呼称はない。したがって上のような「労働階級という名による労働階級の隷属」は全然誇張ではない。当然それへの著者の対処も極めてシビアーになる。

<「嘘の生」を覆い隠すカバーは、奇妙な素材からできている。社会全体を密閉している間は、石のように頑丈である。だが、誰かが一か所でも穴を開けた途端、たった一人が「王様は裸だ!」と叫んだ瞬間、たった一人のプレイヤーがゲームの規則を破って、それがゲームに過ぎないことを暴くや否や、別の光がありとあらゆるものを照らし出し、カバーは実は紙でできていて、耐え切れずに破れ、崩れ始めるのではないかという印象を与えることになる。
 私が「真実の生」と語る時、それは、例えば、知識人のグループが書く抗議文や書簡といった概念的な考察のことだけを指しているのではない。一人の人間、あるいは集団が操作されていることに抗議するあらゆる手段が「真実の生」となりうる。知識人の手紙から労働者のストライキ、ロックコンサートから学生のデモ、茶番めいた選挙の投票拒否から、公的な会議での公的な演説、そしてハンガーストライキに至るありとあらゆるものである。(41p)>

 ここで改めて思い出すのは日本の選挙のことである。私はヤマギシを出て以降選挙に行ったことはない。もちろんそんなことに時間を取る暇もなかったし、その必要も感じなかった。

 ところが昨年の参院選比例区で、「れいわ新選組」が重度の障碍者2議席を確保した。いうまでもなくその推進主役となった山本太郎氏の実践的叡智に拠るところが大きい。選挙のウソくさい無意味さを見事に大転換させて見せたのである。いうまでもなく福祉の依存者でしかなかった人々を国政の推進者に大転換させた。

 ハヴェルの思索と実践が時代を超えて日本でも花開いたと実感する。


 
(註)《「100分で名著」》
 ハヴェルによれば、全体主義は、消費社会の価値観と緊密に結びつく形で「ポスト全体主義」という新たな段階を迎えたといいます。強圧的な独裁ではなく、「精神的・倫理的な高潔さと引き換えに、物質的な安定を犠牲にしたくない」という人々の欲望につけこむ形で、高度な監視システムと個人の生を複雑に縛るルールをいきわたらせる社会体制。
 そこでは、市民たちは、相互監視と忖度によって互いに従順になるように手を差し延べあいます。このような社会では、既存の政治綱領など全く意味がありません。それよりも「思っていることを自由に表現できる」「警察に監視されない」「威厳をもって人間らしく暮らせる」といった、最も基本的な「生の領域」に働きかける新しい形の運動が必要だというのです。



okkai335 at 05:28│Comments(0)

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