(66)ウソくさいものへの直感ーー『力なき者たちの力』(68)近況 私小説第2作出版の決意

2020年03月23日

(67)自分の中にもある「嘘の生」ーー『力なき者たちの力』

   解りやすそうな部分をつまみ食いしながらページをめくる習性のためか、とっても重要な部分が抜けていたことに気づいた。やはりぼくにとって学ぶこと(IN)の基本は老眼をしばたたきながら入力していくことにあるらしい。

<生の目指すものと体制が目指すもののあいだの対立は、社会的に異なる二つの集団の対立ではない。社会が支配者と被支配者に分けられているように思えるのは、上っ面だけを見ているにすぎない。だがこの点にこそ、ポスト全体主義体制と「古典的」独裁――そこでは対立の境外線を社会の中で引くことができる――のあいだのもっとも重要な一つの差異がある。ポスト全体主義体制では、境界線は、実際のところ一人一人の中でも引かれる。>(32P)

<人間が個性という特性を奪う自己目的化した体制を作り上げ、そして日々つくっていることは、理解しがたい歴史を誤解したわけでもなければ、理性を超えた歴史から逸脱したわけでもない。また、何らかの理由で一部の人間を苦しめようと考えた悪魔のような何か高次の意志によるものではない。このようなことが実際に起き、起こりうるのは、このような体制をつくったり、あるいは体制を少なくとも認める気質が現代人にあるからに他ならない。この体制に連なる何かが、体制を反映したり、体制と合致する何かが、人間の気質にはある。人間は嘘の中に生きることを余儀なくされる。だがそれが強制されるのは、そのような生活を営む余地があるからである。体制が人間を阻害するのではなく、疎外された人間が自身の無意識を投影するかのように、その体制を支持するからである。…………
   つまり、二つの異なるアイデンティティの対立ではない。それよりも性質の悪いものである。つまり、アイデンティティそれ自体の危機である。>

   実はこの記述を前提として先回紹介した「嘘の生」と「真実の生」――しかもその「嘘」が“裸の王様”として暴露されることを機として浮かび上がる「真実の生」への展開。その劇的場面はおそらくここで描かれた長い自己韜晦の葛藤を経た後であろう。

   この過程は実は〈ヤマギシ(体制)と自分〉との対比、葛藤の長い歴史を回顧せざるをえない。「体制によってそうなったと言いたいが、内情は自分の中の何かがそれを許容してきた」のである。そこにまさにうさん臭い自分があったことは疑いない。

   おそらく一般論でない他者のうさん臭さが見えるのは、その自分の「嘘」が見えるようになってからであり、決してその逆ではないと思う。先回の文章は今読んでみるとうさん臭いとまでは思わないが、どこか客観的すぎる感がある。



okkai335 at 14:55│Comments(0)

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