(72)拭いようのない不吉な予感(コロナ論)(74)新刊「〝金要らぬ村〟を出る…」

2020年06月15日

(73)国家予算で国民の生活費を支給する時代!

  あれよあれよ、ほんまかいな・・・まさかと思っているうちに、わが家にもその手続き用紙が届いた。たしかに娘は半失業状態、妻は仕事縮小、息子も若干縮小。私はここ2年無職状態だし、年金もないわけじゃないからあんまり影響ないなと言ったら、なに言ってるのあんたの生活費は私から出てるのよ! と一喝・・・

 まあここら辺もそれぞれの家庭の事情で異なるだろうが、幸いなことに今のところは感染だけはなんとか、というのも申し訳ない・・・

 

 それはそれで私に今がっしり取りついている〈観念〉はどえらいものだった。いわく

「国家予算で国民の生活費を支給する時代!」というのである。もっともこの生活費にプラス失業補償を組み込んでもいい。

 ふり返ってみれば私の79年の人生でも経験のないことだと思う。国家というものは国民から徴収するのが仕事であって、その逆はなかった。支給自体はあくまでその必要に応じて補助として支給されることはあっても、その名目は「生活費」自体ではなかったと思う。

 

今ふり返れば懐かしいと思うものの私は年金が安くて、65歳支給を70歳まで延期したことがある。もちろんヤマギシを出てからである。この5年間は気が気でなかったとも言えるが、その結果生き延びてクソ度胸がついたともいえる。

 

さらにもっと〈恐ろしい〉ことに、「金の要らない」村でざっと25年も暮らしてきた。いいかえれば共同体の予算で生活が保障されたのである。もっとも生活費が出たわけでなく生活資材が保障されたのだから、ある意味もっと便利? だったかもしれない。だからそれは「生活費の支給」ではない。そしてこの違いがこれまでどえらい違いだと勘違いしてきたが、いや紙一重の違いであることが見え見えになってきたと思う。

 

いうまでもないがこの違いはスーパーがあいているか否かの違いだけである。ウイルスの進行が拡大してスーパーまで開けないとしたら、現物給与にきりかえるしかない。そうなると国家自体が全国民の生活保障体制に入ることになる。

 

こうなるとこれまでのソ連型の社会主義どころではない。もっとすごい共産主義に近い体制になるのかもしれない。あるいはもはや国家なんてものに頼らない無政府社会になるかもしれない。となるとここではもはや体制だけの問題ではなくなってくる。

 

これ以降になると私(たち)の年来の〈勉強〉が生きてくるかもしれない。要するに「金の要らない村」をどう作るかというテーマになる。

 

〈「金の要らない仲良い楽しい村」というのは、キャッチフレーズとして今でもかなりの傑作だと思っているが、これに「自由」を加えたい。自由性がなければ楽しくならないのだが、あえて強調する。また仲良い、楽しい、家族同然になる、その結果として金を個々に持つ必要がなくなる、という順番がありそうだ。ただこのプロセスは至難の道である。

いうまでもなく、そのために理念というものが一義となる生き方になるなら、お呼びじゃない。もちろんやむをえざる親愛の情にほだされての人間の共同については、これを否定する気は毛頭ない。しかしそれを意識的につくろうとは思わぬ。そのような心情が自然発生的に内発する地点に出会わないかぎり、それはどこかウソになる。〉

(「実顕地とは何だったか、2」より)



okkai335 at 03:55│Comments(0)

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