(75)新刊表紙裏表の予定画像(77)私の拾い読み 「最初の棲家」

2020年07月19日

(76)新刊書 私の拾い読み 「鶏舎建設へ」

  新刊の出版前に自分はどうしていたかを思い出してみた。私には2018年『追わずとも牛は往く』時期の体験があったが、当時その内容をブログで断片的に紹介していた。今回も可能な限りやってみたい。もっともこの本の成り立ちの原本は、『今浦島にわか老後』という手記であって、古い(?)友人はかなり観ている人がいるかもしれない。
 それに今回かなりの「ある前史」という部分を加えた。おそらくこれがないとなぜヤマギシがヒエラルキーと体罰を持ち出すに至ったかの過程が不明であり、私が25年もそこで「金の要らない」暮らしが可能だったか理解不能だろう。

ずばり行きます。

 

〈その後私たち一家は、本州三重県のJ本部に移動する。そこは別海とはまるで違った「研鑽生活」が待っていた。私には別海への郷愁のようなものから抜けるのが容易ではなかった。ただそこの休憩室には次のような標語が置かれていた。

「大きな鶏はたくさん食べてたくさん産み 小さな鶏を決して責めません

小さな鶏は少なく食べて少なく産み 大きな鶏を決して羨みません」

「見出そう自分の良さを 引き出そう相手の良さを 合わせよう互いの良さを

そこで味わう一体の良さの良さ」

 私はなにか襟を正されるように感じた。ここはJ会理念体得を目指す道場のような雰囲気があった。また時折そのことを集中的に学ぶ「研鑽学校」への入学を勧められた。〉

 

  実は私はこの個所で感動したのである。ずっと後になって。当時は当たり前であったこの「良さを見出す」という観点は、のちの「合わせる」一本のヤマギシでは見だされない。

  それ以降のJ会の動きは、共同体なるものの形成にとってかつてない挑戦的な厳しい時期に入る。それは結果として従来の清貧、禁欲のイメージを突破することにもなった。いわゆる鶏舎建設と養鶏作業による村づくり(1980年前後から)の時代に入る。

 

その過程での少ない人員による労働強化で、当然何とかならないかという私ら現場と指導部との交渉があった。私より若い経営事務担当(のち指導部の有力な一員)の語りが今でも私には鮮烈に残っている。

「今はねえ、全体として建設にかなりの人員が投入されてるんだよ。今のように有精卵の需要が多いというのは、我々が真目的を達成する上で千載一遇の好機かもしれない。多少無理があっても、今の時期に鶏舎を建てておかないと間に合わないと思う。しかしいつまでもというわけじゃない。遠からず建設が少なくなる時が来る。そうしたらそのメンバーが飼育に戻って、もっと全体としてゆったりしてくるんだがなあ」

 私はそこで感じたのは理念というより理想に近い心情だった。これが伝わってこないはずはない。しかしのちこのような裸の交流は次第に理念と組織体制に集約されていった。(続)



okkai335 at 02:45│Comments(0)

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