〇一番現実的「有隣堂」、さらに「紀伊国屋」に85)新刊感想② 特徴ある言葉「漂泊」「嗤う」

2020年09月03日

(84)新刊、旧友からの最初の書評

 旧友NI氏より、今回の新刊についての書評をいただいた。同じく旧友K氏(1作目の編集担当)を通してかつての同窓生に届いたものを再転送します。


 

 【福井大兄の本、しばらく前に届いて読了してたんですが何か「読んだよ」と言えないまま一週間がたちました。内容が少しつらかったし、ヤマギシ退会して随分立っているのに前作もそうだが今回も時間がかかっていて精神的なくくりも大変だったろうなと、安易な感想はダメだよって感じでした。なまじ福井さんを多少知ってるからいけませんね。

 最後の飛行場見送りの場面が一番印象的です。お嬢さんも含めて、寂しさと悲しみと、少し光射す希望の揺らぎ見えるフィナーレでほっと慰められました。言葉も文体もいいですね。全編の思いがここにつめられたと思いました。

 それにしても「村」を出て「新しいまち」に向かった仲間たちの人の好さはどこから来るのだろう。小さなかたまりは出来てもコミュニティがないと社会は成り立たないしねえ。自立共助かあ。その後のみんなはどうしてるかなあなんて思わせられます。ふつうのフィクションではそうならないけどね。いいおみなの多恵子さんはどうしただろうね。

 福井さんが昔美浦の村長室に来てくれたのは三重の実顕地でリーダー的に頑張っていたときだったな。生き生きして見えましたね。様々な世界、いろいろな人生選択、今作も貴重な記録文学と思います。

 「追わずとも・・」の方が物語性はあったと言えますね。ページ繰るのたのしみだったから。デモ今回も労作ありがとうです。続編もありですね。皆で待ちましょう。

 お元気でまた。 福井さんによろしく  NI生】

 

  

(福井記 NI氏への感想)

 NI氏からは前作「追わずとも牛は往く」で実に繊細で心温まる書評をいただいた。それ以来の付き合いどころか、実はずっと札幌の大学寮からのつながりがあった。当時彼はランボーの愛好者でフランス語でそれを読んで見せる根っからの詩人だった。私がヤマギシに入った頃は彼はすでに田舎村の村長に収まっていた。それでも時折「図書新聞」にも寄稿する読書人でもある。

いうまでもないがその精神の痕跡はずばり、最後の飛行場見送りの場面に現れる。ぼくのこの書のモチーフはいうまでもなく、「金要らぬ」であり、「ただ働き」の世界であって、これまでの広報もあくまでその部分を前面に掲げた。しかし彼のこの指摘によって、私にまざまざと蘇ってきたのは、あの夕陽に燃えながら飛んでいった飛行機の場面だった。つまりこの新作は、あの映像から起爆しあの映像で終わる。そのぼくの心中を彼は詠んで見せたのである。そういう意味で彼は典型的な文学者だといっていい。

このことはぼくがこれまで私記だ、手記だ、ノンフィクションだなんて区別だてしてきたことが宙に飛ぶ。それはそれで否定できないが、同時のその書き出しの発端となる衝迫には何かしら特別の感動や感激を伴うものがあるらしい。それが「文学」だというなら何も否定することはない。

その観点もあるのだろうが、そのあとで彼が取り上げる作中人物の捉え方が極めて的確であることに驚く。そこには私がなんとか描こうとした作中人物が生きて動いていたのである。

「(あの)仲間たちの人の好さはどこから来るのだろう」

「その後のみんなはどうしてるかなあなんて思わせられます。ふつうのフィクションではそうならないけどね。いいおみなの多恵子さんはどうしただろうね」

ほんとうに短い文章の一説ながら、ずばりと心に刻まれる。さよう、この頃の皆は今どうしているのだろう。ぼくはずっと長いこと会えなくなった彼らと再会したくて、この本を書いたといってもいいのである。



okkai335 at 03:39│Comments(0)

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〇一番現実的「有隣堂」、さらに「紀伊国屋」に85)新刊感想② 特徴ある言葉「漂泊」「嗤う」