(93)私の初期実顕地総括――経済の観点から(下)(95)小説 私の好きな箇所、Ⅱ

2020年10月10日

(94)小説 私の好きな箇所

 少し趣向を変えて、読書内容の交流もしたくなりました。 

  ―息子のぼんやり―

     
(『息子の時間』12章「離脱親元にやってきた息子」(153~155P)


【不意に息子の過去の姿が蘇ってきた。あのバス停で、なにをするわけでもなくぼんやりと地べたを眺めていた息子が。

 あの時には気づかなかったが、息子のそのいわば覇気のなさは、環境にがんじがらめにされた諦めによるだけではなかったのではないか。

おれは街に出て仕事を探し始めた時、面接の結果を待ちながら、まったくなにをすることもなく日を送らねばならなかったことがあった。公園へ行こうか図書館に行こうか、それとも……と考えているうちに一日が過ぎた。その、一日をどう過ごすかを考える一日ってなんのことだろう。外に出る金はもったいなくて使えなかった。なにをするか考えるのにも疲れ、本やテレビにも飽き、ぼんやりしてまったく時間の流れに身を任せていた。いわば自己を放擲していた。

空に漂う翩翻たる雲を眺め、近くにあった沼の風に揺れる波形を眺め、彼方の高速道に渋滞する車の遅々とした動きを眺めていた。いつしか夕日が沈み、辺りが暗くなっているのに気づく。こういう時が経つのを意識しなかった時間、そのことでかえって、ああ「時間」とはこういうものかと感じる。すなわち無為の充実とでもいうものを、その時になって初めて知ったような気がした。

               ……………

その後の学生運動も教師生活も、暇があればなにかをやっていなければ気が済まない半生を過ごした。「村」での生活も、基本的には意識生活の連続、一日二十四時間全てに理念、イズムを顕わす生活だった。G会の「進展合適」の理念は本来自然適合性を指していたのだろうが、「成るのではなく為す」「合うのでなく合わせる」という方にウエイトがかかっていた。

性急なこじつけや思い込みかもしれないのだが、もしそれが当たっているなら、息子は「ぼんやり」にもう中学生の頃からある価値を見出していたのかもしれない。息子の高等部を辞める時の理由の一つが「ぼんやりしていたい」だったっけ。とすればその理由がかなり別の様相を帯びてくる。すなわち、そんな強いられた環境の中での「ぼんやり」は、単なる無気力や倦怠ではなく、息子なりに自己存在、アイデンティティを確認し保持しようとする営みのようにも見えてきたのだ。


 さらにそのぼんやりが進行すると、息子の云うように潜在意識下のなにかが「聞こえてくる」ようでもあった。それはおれに、警備員の仕事に就いて気づいたことを想い出させた。「村」では肉体労働や「悩みなし」の精神的割り切りが基本になっていたこともあって、熟睡する習慣ができていた。しかしここ夜間巡回を前提にする仮眠室ではあまり眠れずよく夢を見た。目覚め前の切れ切れなイメージの断片が散乱する夢を経て、重い寝覚めもあったが、時にはすっきりした目覚めもあった。そんな時たまには新しい着想が生まれることもあるのを知った。

つまり、ぼんやりした夢の時間に断片的認識のなんらかの整理・統合が進行しているようだった。家にあった映りの悪いおんぼろテレビのように、いわば映像がクリアーになる以前の、ざーと鳴るだけの白い画面や不鮮明な翳しか映らない部分に多くのことが為されているらしい。たぶん息子はいつものぼんやりした時間に、そういうプロセスにある白昼夢を見ていたはずだ。】



okkai335 at 04:07│Comments(0)

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
(93)私の初期実顕地総括――経済の観点から(下)(95)小説 私の好きな箇所、Ⅱ