米俵も土俵に(13)米俵も土俵に(15)

2020年11月17日

米俵も土俵に(14)

 五)月明集卵
 

ここも近くに高速道が南北に走り、あたりはいよいよ春耕を迎える水田だった。佐名木のR会各機関がある一帯は、そこから東側の坂道を登った一段と高い丘陵上にあり、周りは鬱蒼とした森林だった。その森林を切り開いたような隘地に各種建造物が散在していた。その入り口付近には幾分しっかりした建物があり、R会本部とあった。それは参画者ではない一般支持者、会員向けの機関のようである。そこから奥に入るとかまぼこ型の宿舎や幼児舎が見え、さらに進むと大きな広場に出る。そこはガソリンスタンドを抱えた大きな駐車場になっていて、それを囲むように倉庫や作業場などがあった。さらにその奥には中央調正機関の各事務所や食堂などの生活施設がある。反対側の前面にはゲージ飼の古びた鶏舎が見え、さらにその奥には養鶏試験場と銘打った幾分新しい鶏舎群や配合所が見えた。ここが私の配置される平飼い型の鶏舎だった。この広場からさらに東方奥に突っ切ると、これも会の梅林や農場が続いていた。たしかに里郷に比べ全体が整然として落ち着いていた。新しいバラックもあったが、建物は古びたものが多かった。

私の受け入れは、試験場その他の生産面をまとめている産業部の係が担当した。彼は大迫という若い男だった。受け入れはほんの挨拶程度のそそくさしたものだったが、声も女性的でやはり私より十歳も若いらしい。高校生時代に東京で全共闘に関わったという噂は聞いた。宿舎も里郷とちがって四畳半六畳の二間もある部屋だったが、じっくり部屋を整備している余裕はなかった。私に襲いかかったのは仕事、仕事、仕事だった。ある意味、どこかで予想していたずばりの必要性だった。試験場の鶏舎は整然と十棟立ち並んでいたが、ともかく人手が足りなかった。

時あたかも世は自然食健康食のブームで有精卵の需要が増加し、R会の有精卵も注目され始めていたのだ。杉原氏ら指導層はその時流に着目しながら、鶏舎建設を進めることで全国各地にR会顕現地を造成しようとする構想のようだった。またそれが養鶏試験場繁忙の背景にあった。


 私は飼育に、多希子は選卵に投じられ、二日後にやってきた長谷夫婦も待ちに待った格好の人手だった。改めて里郷の養鶏部は人手が潤沢だったと思う。段取り役の木本は無精髭で、日焼けなのか疲労なのかわからない黒ずんだ顔をしていた。ようやく飼育から離れて入雛準備の糞出しにかかれるとほっとした表情だった。養鶏試験場一時に四人の増員は従来のメンバーからすれば、それなりの補充になったようである。

しかし私にすればその作業量は里郷の経験を超えていた。配置された仕事以外にしばしば月明かりに集卵し、早朝に餌やりをやらざるをえないような過重な仕事の逼迫状況が続いた。早朝から駈けずり回って夕食はいつも夜九時過ぎだった。その原因の一つは必要メンバーがきちきちな上に、よく休むことだった。そしてそれを里郷のように、仲間同士でフォローできる機会ともなっていた朝晩の研鑽会というものがなかった。私はそれなりに前向きでここへやってきた以上、求められれば動くことをためらわなかった。また女性メンバーが半数以上もいれば、理念への献身というより年配の男としての責任感も引き出されやすかった。



okkai335 at 10:00│Comments(0)

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