米俵も土俵に(19)米俵も土俵に(21)

2020年11月25日

米俵も土俵に(20)

仕事上の不平不満とか中調メンバーに対する批判はほとんど出なかった。それは参加者が顕現地グループの意識層からの者が多く、さらには自己の心境や境地を深めることが先行するR会の気風からくるのだろう。その上で「元造りいっしょにやりませんか」「もっと一つでやれませんか」という呼びかけになった。これらは私からすれば希望に向けてのいささか背伸びした語りではあったが、私自身も加賀に語ったようにすでに「先の楽しみに生きる」血脈を生きていたのである。

顕現地派の語りには中調メンバーはかなりの違和感と批判を感じたであろう。年配者が多く弁が立つ中調幹部は、若者の多い顕現地グループの性急を慰撫し戒める風だった。彼らは若者らの産業経営面に占める働きには一応敬意を表しながらも、試験場、会本部、中調などの諸機関全体との調和を強調した。


 私は参加して初めて中調グループの発想の全貌を理解した。彼らは要はRイズムの試験研究・宣伝拡大を主目的として、生活体造りは副次的なものだった。だから顕現地造りは否定しないまでも、あくまでも試験研究の一環でしかなかった。それは私にとっては、ある意味で好もしい活動に見えた。理念集団の活動としては、そういう試行錯誤的分野が不可欠だと思えたのである。しかし内情はその実態が乏しく、それを支える資金や生活基盤造りへの関心は乏しく、かつてのリーダーの多くも顕現地派に鞍替えしつつあった。


 逆に私には産業・経営を通してRイズムを現していくという顕現地造りは、その生活体自体の存続も含めて明らかに実効的現実的に見えた。目的実現のプロセスを考えない構想は幻想に過ぎない。いま必要なのは、なんでもやってみようとする、米俵も土俵になる覚悟なのだ・・・おお誰かさんがおっしゃっていられた通りだ。
 
 加賀たちのように「今を幸福に」と淡々たる暮しやそのなかでの個の実現にうつつを抜かす人ではなく、未来のために今を犠牲にできる人材、平然とロボットや捨石になりうる人だ。私はいつしか躊躇なく〝杉原秀治の徒〟と化していたのである。中調派の目指す理念集団としての試験・対外活動もいずれ必要だがその基盤づくりのためにも、いまやるべきことがあるはずであった。ともかくそれに向けて、リスクと犠牲を極力避ける方向でやっていくしかない。そのように私は納得していった。



okkai335 at 12:31│Comments(0)

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