米俵も土俵に(21)米俵も土俵に(23)

2020年11月30日

米俵も土俵に(22)

    (八) 境地を

  

 

ところで養鶏試験場の職場状況について、私は現状を突破するそれとないヒントを得る。たまたま里郷に出向いての関西一円の顕現地養鶏部段取り係の研鑽会だった。仕事を片付けての遅れての参加だったが、人手がいないことではどこも同じ状況だった。杉原氏、鯵沢、シゲおばちゃんも同席していた。杉原氏はニコニコしているだけでなにも話さず、鯵沢がリーダーとして全体を推進していた。里郷養鶏部で感じた印象よりは、鯵沢はよく事態を掌握しているように見えた。たぶん私も現場の問題に切実に直面していたからだろう。

「相手の話をよく聞いて受け止めるというだけなら、まだ遠慮がある。誰しも志を抱いてここにやってきているはずだ。相手のことを思ったら、その崇高本能に問い、真の境地を得てもらったらいい。それが自他一体の実践になる」

鯵沢が述べたその発想に、私は逆転の秘策を発見したような気がした。私にはその「崇高本能」、即ち崇高たらんとすることは人間の悟性的かつ意図的なものであるというより本能だという思想は、創始者R氏の掲げた理念のなかで最も抗しがたいものだった。

 そして人間の自発性・自主性を尊重するとは相手に介入しないことだと観念してきたが、それこそ盲点ではなかったろうか。それは私の現状からいって、渇したものが水を求めるように欲しかった発想だった。それこそ里郷で鯵沢を前に皮肉った「一体というのは人をうまく働かせる理屈」のもっとも巧妙なものだったろう。しかし状況と立場が変わったせいか、その皮肉はまったく出てこなかった。

それからというもの私の声かけは、しばしば叱咤激励調に変わった。「ぶらぶらするためじゃなくて、なんかをしにここへやってきとるやろ」「鶏や人のことをどこまで思えるかや」「作業するんじゃない、そういう自他一体を顕す実践をするんやないか」・・・・・・

それはずばりの指摘だったし、事実それで動きだした人はかなり出始めた。それを自発的といえないこともない。彼らは指摘・批判され、理念を実践する参画者のいわばプライドのために動いたのだから。

  しかし逆に私に対し文字通りドアを閉じ切ってしまうメンバーも出てきた。もう会わない、来るなという態度だった。そういういわばうまくいかない事例にぶつかると、私は己の動機の不純を思わざるをえない。話しているうちに熱が入り、本気になり、本心となっていったが、その出発はやはり人を動かすことにあった。しかし私の繰り出す論理はいつのまにか私のなかで自身の崇高本能の発現、理念実践の正義と化し、自分のささやかな疑念を隠蔽することになっていった。



okkai335 at 02:30│Comments(0)

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