米俵も土俵に(24)米俵も土俵に(26)

2020年12月03日

米俵も土俵に(25)

         (九)割切る

 

 その後試験場の職場研鑽会で、同じことが何度か繰り返された。こういう全人愛和を唱えながら個々に追い込み見切っていく場面が続くことに、私はどこかで怖れを抱いていた。こういうことに慣れてしまわないのだろうか? と。作業に消極的な人々、要は顕現地造りに積極的でないとみなされた人々は、周囲の標的となっていった。かれらは全研の中での中調メンバー以上に孤立していた。

 
個人の姿勢を問う研鑽会は、当然ながら脱落する人や反発し抵抗する人も出した。趣味の時間がほしい、日曜日がほしいと嘆いていた新参画の中年男がいた。R会では「無停頓」と称し、特定日の休日を設けず必要に応じて涵養日を申請することになっていた。それは定休日が支障になりやすい生き物相手の職場には好都合でもあった。本を読みたい、勉強したいという若者がいた。彼らはいつしか姿が見えなくなった。しかしそれらは結果として私たち段取りメンバーの負担を軽減するようになっていった。同調する人々が増えていったのである。つまりメンバーはかつてなく働くようになっていった。

この事態の進展は、私のいささか苦しい自己弁明も忘れさせていった。つまり慣れていったのである。働き出した人々の内実が純粋だったかどうかは問わない。ありていに言えば私自身も含めて体が頑健で普通に仕事ができれば最も〝安全〟であった。そう、私がなんだかんだといってもこの時期を乗り越えられたのは、たぶん北海道で鍛えられた体力とクソ頑張りによってだった。むろん理想社会への強烈な希求は自分を支えはいたが、それは宗教的信条に近いものだったかもしれない。


 しかし全財産を放してこの生活体に参画した人々の多くはいまさら帰るべきシャバはなかった、という事情を充分加味してみる必要がある。ここへやってきた人々は、みなかつての地や職では選ばれた、あるいは自らを選んだ人であり、ここでは捨石でない何ものかになろうとしてやって来たはずであった。昔の出征兵士のごとく華々しく送られ、異境の山野にボロと死骸を晒すために行くつもりは毛頭なかったろう。私自身がそう願ってやってきていたのだ……

 

いやちがう。私はなにかしらぎくりとしたのである。私は自分に「土俵」になることを課した人間であって、もともと「米俵」のままの彼らとはちがう! 

そう、もともと体力がなく病弱だった人たちはそこを去るしかなかったならば、そこにその「米俵」の自覚しかない参画者メンバーの“持ち味”のテーマがどうなってしまうのか? なんということだろう。「個の実現にうつつを抜かす人ではなく」と私は一蹴していたが、それこそ私にとって配慮すべき大きなテーマだったのではないか!

そう、あれあれ、あれは何だったか? 私はついこの間まで自分に課していた記憶を何とか呼び覚まそうとしていた。あれはあれ「見出そう自分の良さを…」だっけ。たしか里郷の養鶏部で感動した章句を。その次が「合わせよう他人の良さを…」だったか。それをすっかり忘れ果てていたらしい。それこそが本来の対等相互世界構築への取り組みにつながっていたはずであった。私がこの間佐名木でやってきたことはこれとは正反対の道だったようだ。



okkai335 at 00:47│Comments(0)

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