新刊へのあれこれ 紹介とその元米俵も土俵に(29)

2020年12月09日

米俵も土俵に(28)

後になって私が知ることになったのは、その○○という人物のことだった。彼は関東のN生活体に所属し、そこでかなり周囲から問題視されていた人物だった。N生活体も顕現地に向けての動きを進めつつあったが、佐名木のような大規模でないため、その動きの障害になるのが二、三の人物で、彼はその代表格だった。しかも彼はアルコール任せで時折暴力的になるという噂も聞かれていた。それが研鑽会に参加してもらうことで、Nの顕現地化の動きを促進できるという期待が一時頓挫することになった。同じような問題を抱えている生活体も他にないわけではなかったろう。

 

養鶏法研鑽会に向けての体制作りは着々進められつつあったが、作業面の受け入れは何とかなっても、難点は何といっても生活面の受入れだった。産業部と養鶏試験場、および生活部の合同準備研で、この際非常手段が必要だということになってきた。すなわち子どもらの集団合宿体制によって生活部の要員を確保するという方針だった。幼児舎の三歳以上ざっと20人の子どもらの夕食、風呂入れ、宿泊を幼児部で一手に引き受けることでそれが可能となりそうだった。

この方針はまず養鶏試験場が職場である母親から歓迎された。彼女たちは他職場よりは帰りが遅く、幼児舎からの子どもの引き取り後も互いの子どもを預け合うこともままあった。その難点も一挙に解決されるというのである。

ところが他職場の母親はそうではなかった。明るいうちから子どもの風呂・食事を済ませ、その後の母子の時間を大事にしたかった。当時社会常識的にはこの方が正常だったと思う。

私ら準備推進メンバーは、幼児部の古いおばちゃん係からの過去の経験談も聞き、そういう母子の正常な関係からいってもそれほど長期にならないかぎり集団合宿体制は問題がないと判断した。むしろ子どもら同士が一緒に寝ることを喜ぶ場合もあるらしい。その辺の事情は私には別海での経験からも思い当たることだった。

ただ養鶏部外の母親からの二三の疑義はあったようだが、いうまでもなくここでは多数決や強制力で事を決する慣習はない。顕現地に向けての生活体一体の取り組みの方向はすでの佐名木の大勢となっていた。まずやってみようということで始まった動きは次第に全体に波及した。あの夕方の子ども引取りの行列は目立って少なくなった。残るのは乳幼児の母親だけという状況ではなかったにしても、私には幸先良い動きだと感じた(もっとものちに心的外傷ストレス症候群〟の流れで、幼児部での「母子分離」問題が意識され出した時期に、この時期の佐名木の試みも思い出されている)。



okkai335 at 15:49│Comments(0)

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