2020年12月20日
米俵も土俵に(完)
またしばらくしてではあるが、私自身が新学園設立を目指しての佐那木に近い別の小顕現地への配置換えが決まった。それへの急激な対応に追われたために当時は特に大きな感慨はなかったが、振り返ってみればこれこそ私にとっての大きな分岐点になっていた。
当初それは私にとっての自己開発と自己実現の絶好のチャンスに思えたのである。どうも杉原氏の言葉に嘘はなかったようだ。すなわち私は自らの「米俵」の世界に帰還したというよりいわばもっと直進していた。というのはその「米俵」は私の〝仕事〟というより好み、趣味の世界であり、あのまさかの絵本『カラスのパン屋さん』の世界を私は手探りで表し始めたのである。実際その絵本は「村」の子ども生活空間ではよく観られていた。それがどこかで話題にされたらしく、本庁学育部門から本格的にやってみないかと勧められたのである。実際私は関東のパン工場に実習に出かけ、帰ってからは実際そこでのパン工場の設立に全力を挙げる。
ただこの事例は、私が最初に提示した自分の「米俵から土俵に」という認識の持つある普遍性から逸脱するように思う。というのは私の本来の事例は、一介の養鶏部メンバーがその従来の職分からかなり外れた「土俵」、言いかえれば未知未体験の別顕現地職場に移行することを指していた。しかもそれは成功するか否かは不明のきわめて試験的なものだった。
これは確かに一般化できない部分もありそうだが、それでもこの時期の顕現地移動を伴う人事異動にはこういう不安や心情は憑き物であろう。古参メンバーは別にして新参画者が多いこの時期には、顕現地生活に習熟するにはかなりの日時がかかる。それを経て時には天職と見なされるくらい習熟できる場合もありうる。そういう意味でこの時期の職場移動には、どうしても「土俵」感覚とその習熟による「米俵」化という過程が不可避だったと思う。
その後当時の顕現地中枢部でどんな研鑽があったか知らないが、始祖R氏の『愛児に楽園を』構想を対外的に打ち出す。それは、一つはこの私が担当した「村」に幼児部を、もう一つは顕現地本庁のあった里郷に高等部を建設することだった。それこそ当時は理想と希望に満ちた華々しい出発だったのである。
この将来がどうなっていったかについてはあえてここでは触れない。
ただこの時期は、同時に「村」における物質的金銭的プラスが徒花のように咲いた時期でもあった。私の中に満面笑みを浮かべた杉原氏が、木の香も新しい新築の大食堂に昔の離脱同志を案内して歩いていた姿が蘇る。また新築幼児舎への通路「子放れの門」から子どもを送り出す親のありようを村人に参観案内していた学育女性幹部の姿も思い出す。(完)