時代動向としてのヤマギシ評価ブログ小説第2弾

2021年01月05日

「実顕地」での新刊個別購入

明けましておめでとうございます。

 

やはりこれからのことを少し考えてみました。

実は現「実顕地」メンバーの方から電話がかかってきたからです。

 

曰く「みんな金があるから、あの本はそれぞれで買うの。でも感想は言い合ったことはないわ」

 

 ぼくはそこまで行っているとは知らず、びっくりし、またその情景をとても不思議にも思いました。そんな本の貸し借りなんて別に当たり前だった「実顕地」で、みなぼくの本をそれぞれに<買って>いたのですから。

 

ああ、ここで少し断っておいた方がいいと思いますが、この「実顕地」はいわゆる普通の実顕地とちがって「とよさと」のことです。これはいうまでもなくあの新刊でも紹介しておいた2000年頃の脱会時に「生活援助金」を請求した「村」のことです。それ以降は、といっても2018年以降の新刊は、他の村人であればぼくは一応求めに応じて「周囲にわからないように」本を送っていました。ところがそこの住人はご存知のように<別天地>というのか、生活保障充分な雲上人のような存在でした。

 

その時にぼくなりに感じたのは、やはりこの本については配達不能な<奥の院>は存在しないということです。しかしその後遺症は歴然として残っていた。いわゆる個人が公然と購入できるが、その唯一の制約は「感想を語り合うことはない」という1点のようです。そうなるともはやその個々人次第だというしかない。

 

ところで電話で話し中でも、ぼくは相手の顔を思い出せなかったし、相手の女性もぼくの顔を思い出せないようでした。それだけの長―い時間が経過していたのです。それでも真っ先に出てきたのが上の話です。ぼくはいったい何が起こったのか了解できないままでした。その三日ほど前に妻宛になにがしかの生産物が贈られ、それがきっかけになっています。

 

ここまで来たらぼくは、ただこれからの推移を楽しみに見守るしかないでしょう。

 

とはいえこの後、ぼくに何か言いうるとしたらなんだろうかと何度か考えなおし、また書いてもみました。そのうち浮かんできたのが以下の文章です。昔ぼくなりに必死に書き綴ったものの1節です。まさに皆さんなら馴染みの「研鑽」(個人研鑽もあると思う)の対象として、あの本を読んでいただけるなら同時に。

 

【――またあの山岸氏の文章の中で珍しく昂揚した詩的美文調「そこには陽光燦き、清澄・明朗の大気の裡に……」の世界、「見るもの聞く声皆楽しく、美しく、飽くるを知らず……」の世界、「各々が持てる特技を練り、知性は知性を培い育て、高きが上に高きを……」の世界、これらの世界を実見し、体感しえたメンバーはどれくらい居たのだろうか? “心境的あるいは境地的”の人はどこかに居たのかもしれないが、残念ながら出会う機会はなかった。私などは時折その萌芽を実感しなかったわけではない。しかし大勢は、いずれそのうちに、の彼方に期待していたのみで、いわば願望をこめてその文を経典のように諳んじるだけに終わったのである。

すなわちその山岸氏が幻視した世界こそ、この運動の真目的であったはずだった。しかし、その想像上のピークをさらに高めることはできなかったばかりか、到達すらできなかった。それに骨格と肉付けを与えるために粉骨砕身してきたつもりだったが、ピークを高めたのは産業であり、組織であり、員数であり……といった手段的派生的なものばかりだった。

ああいう世界を実見・体感できるのは、おそらく山岸氏に次ぐ天才的想像力を持った特別人間しかいないだろうが、ただ凡人だけでもその「一体」力で“集団としての天才”に到達できると夢想したことはある。まあそこまでは無理にしても、普通人の集まりで考えればやはり必要な条件を揃えねばならない。すなわち相当な余暇と、それによる試行錯誤と、さらに集団的叡智を交流できる仕組みだった。いうまでもなくその出発点として先述した労働時間の短縮が絶対的な条件だったのである。(「ジッケンチとは何だったのか、2」)



okkai335 at 03:56│Comments(0)

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