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2021年02月01日

今蘇る『追わずとも牛は往く』のこと

このところ元実顕地メンバーの新刊購読が目立ってきましたが、その感想は「ほとんど知らなかったことばかり……」でした。それもあの2000年前後の混沌の時期、大いにありうることでしょう。「村」出といっても、それぞれいろんな背景があることでしょうから。中には友人知人にも読んでほしいと大量に注文される方もいます。


それでいろんなやり取りがあって当然でしょうが、ぼくの最初の本『追わずとも牛は往く』も話題となり、これまた注文いただくこともあります。この場合はぼくからの郵送になりますから、これまでかなりの残部に閉口してきたぼくにはとてもありがたいことです。

 

そこで当然のことながらぼくの方で、その第一作のあれこれについてふり返る機会が増えてきました。そこにはいろんな忘れがたい場面や描写が浮かんできます。あの最後の「エピローグ」は三重の実顕地に移動してからの思い出すことすらきつい世界の要約描写に宛てられていますが、それでも終わりにほっとさせられる描写もないではありません。

 

 

そう今思い返しても、あそこは独特のあたたかさがあった。そこは、今だからこそかえって心底願う「働かざるもの食ってよし」の世界に見える。そしてあの『睦み』の体験がなぜかしら、深い哀惜の念とともに蘇ってくるのである。とすればそれは何なのか。おそらくそれは理念でもシステムでもない。もっと単純で心豊かなもの。丈雄にはそれはやはり「好きな」世界だったというしかない。それももちろん雑多な人間集団のことだから、いいことばかりではなく、つらいことも、厳しいことも、いろいろあった。ただそこにいつも地のまま、過渡のままであるような人々がいたということ。それも大空と大地と牛という存在に照射されながらの(271P)。

 

 

 さらにあの作品の内容、しかもその根幹について、もっとも適切な表現となるとどういうことになるのか、改めて読み直し考え直してみました。
 
それについてぼくはやはり以下を挙げておきます。別海の村に泊まり翌朝参画の手続きに行く直前、知床の連山に直面する場面がありますね(52P)。


  ようやくやってきたこの里の宿舎の窓からは
  広漠とした雪原が見え
  そのかなたに知床の山々がくっきり浮かんでいます
  私たちの「個」は互いに屹立し他と峻別される単峰でなく
  あの並び立つ連山の峰の一つになりうるならば、とねがうのです
  人はともにあることが避けがたいからこそ
  睦み合うものとして生まれたのでしょう
 だから自分だけでなく自分を含めた人々のために
 身体を使うこと知恵を働かすことが心地よく爽快なはずです
 そんな大家族の未知の可能性にかけてみたいのです

 

 

そしてこの本の最終ページ(「エピローグ」前)に以下の記述があります(261P)。

 

牛舎に向かう途中、北東のかなたに知床の連山がほとんど雲を被っているのが見えた。あの雲の彼方でおれはあの連山の峰の一つになりうるのだろうか。それとも連山はいつしかそれらを凌駕する巨峰によって統合される宿命にあるのか。あるいはついにはそのいずれもが無に帰することもあるかもしれない。そのわずかに予測される行く末の不安を嚙み締め、丈雄は牛舎更衣室のドアを開けた。

 いうまでもなくこの最終文節で、前者記述の核心と対応するように意図した部分です。ともかくじっくり読まれお考えいただければ、本当に作者冥利に尽きます。 

 

 

註)連絡先は、e-mail akkesi7816@outlook.jp 福井正之



okkai335 at 02:51│Comments(0)

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