面接(21)身辺雑話 横浜発行の乗車券のこと

2021年02月20日

面接(了)「人でなしの国」

                   

(八)

 

 重いなあと肩を揺り上げると目が覚めた。珍しくいつのまにか夢を見ていたのかもしれない。電車は満員になっていて大きく揺れた瞬間だったのだろう、目の前に持たれかかった男の胸があった。人・人・人とびっしり埋まっていた。押さないで、という悲鳴やため息があちこちから吹き出していた。人々の肩と肩が、背と胸が、脚と脚が、ぶつかり合いくっつき合っていたが、顔は背け合っていた。彼は、これはなんだろう? とぼんやり思った。

 身体がこんなにも密接しているのに、心はばらばらだ。これが彼の目指した多様な物差しがぶつかり合う社会なのか? そうか、これから暮らそうとする社会は、このように心通わぬまま必要によって身体を寄せねばならないところらしい。今日の面接もそうだった。ならば心通わそうとする前に、もっとやることがありそうだ。やはり“丸裸”は慎まねばならない。

 それにしても人々の互い違いの心の壁を穿ち、通い合う心のままにムラで暮らした日々があった。その心がある方向性を持ち、強力な束ねの手段として作用し始めたのだ。もう後戻りはできない。

 少しずつ周囲が見えてくると、やはりみな家路に向かうのであろう。ケーキの包みを頭上に上げている男もいた。みな帰るところがあるのにおれにはない(今宵は会員氏の家にお世話になるしかない)。この街で帰るところがある世界に闖入するのも容易ではなさそうだ。

 でも逆に見直せばこんなにもたくさんの人々にそれができている。おれにもそれが許されていいはずではないか。やはりおれはただのお先っ走りだけの人間ではないはずだ。彼は少しばかり悶々とし胸がうずいた。それを振り切るように、今日の面接結果が出る一週間をどう過ごそうかと考え始めた。

 

   

『人でなしの国』

 

ちょっと現場の方を覗いてくるという精悍男氏が立ち去ると、残された二人は顔を見合わせた。

「あのR会の人、なかなか面白かったですね」

「ちと面白すぎだよ。おまけに馴れ馴れしくて態度がでかい。時間取りすぎたな……しかしまああんまり見ない変わりもんだな。ちょっと純粋でマジメすぎるんだよ」
「普通なら一家離散でしょ。ようやりますよ」

「……いやあ、唐突かもしれんが、わしはちょっと漱石を思い出したよ」

「へええ、さすが副理事長、教養が高い」

「私はあんたらと違って、文系だったからな。ほらあの『人でなしの国……』とかいうのがあった」

「それは、ひょっとして『草枕』でしたかな。ちょっと調べてみますね」

「えー、あんたも読んでるのかね」

 男爵芋氏は、仕切りの裏の書架に並んでいた文学全集を探した。この理事室の書架には専門の建築関係の本や資料が大半だったが、片隅に忘れられたように文学全集も置かれていた。たぶん禿げ白理事の趣向が持ちこませたものであろう。男爵芋氏は本を持ち出してきてその個所を広げると、二人の頭が寄った。

  人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

  二人の頭は前に振られ、それぞれふんふんと肯いた。

「あの男はやはり『人でなしの国』にいたんですかね」

「『人でなしの国』も、いろいろ寄ると『人の世』になるのかもしれんがなあ」

「あのシステムはかなり興味深かったですね。うちの女房に聞かせたら、気持ちが動くかもしれません。もう子ども、子ども、で参ってますからな」

「わしもいつまでもシャンとしてられんからなあ。後学のために覗きに行くか……。まあ、冗談だがね」

「ええ、もちろんですよ。『越す国』なんてないんですから」

「そうだよ、あれは逃げだよ。あんなとこ行ったら人間の努力が要らなくなるじゃないか。あの男はさらにそこからもう一度逃げた。二度も逃げたんだぜ」

「ところで副理事長、どうしましょうか」

「そうね、他にいないなら考えるけど。曰く有りはやはりねえ……」

「私もそう思いますよ。なにしろ大工・建築屋さんの子弟を預かる私どもとしては、逃げより叩き上げの姿勢が大事ですからな」

「それもあるが、あの男にとっても『人の世の住みにくさ』をもっと骨身に沁みんといかんな。普通ならもう定年のことも考えにゃいかん歳なんだろうが。わしもだてにこういうところに行くわけにはいかないよ……」

                                                                                   (了)

 

 

 



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